2025年9月18日木曜日

神功皇后陵散歩

    先日来、大和の馬見古墳群にある島の山古墳の被葬者について、小笠原好彦先生の説を踏まえて、後円部には神功皇后の父の息長宿禰王が、前方部には母である葛城高顙媛(たかぬかひめ)が、喪主・神功皇后によって被葬されたのではないかと考えられると書いた。
 神功皇后は、戦前はいわゆる三韓征伐などの記述をもとに侵略戦争の「正当性」の証人のように扱われ、その反動で今日に至る戦後は、多くの歴史学者によって存在自体が否定されている。
 故に、理性的で実証主義的な立場の小笠原先生が「神功皇后は実在した」と述べられていることは、見ようによっては爆弾発言かも知れない。
 そんなこともあり、先日、神功皇后陵まで散歩に出かけた。
 例によって宮内庁の治定(じじょう)であるから問題があるのだが、奈良市山陵(みささぎ)町にある「神功皇后狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)は墳丘長267mで全国で12位の大きさの前方後円墳。4世紀末築造とされている。
 写真は前方部正面だから、巨大な丘というか森でしかない。
 周囲にも森(実は古墳??)が多く、ツクツクホウシが大合唱を繰り広げていた。
 それはさておき、仲哀天皇や応神天皇の陵が古市古墳群にある(移った)のに、あえて一時代前の天皇一族の墓域である佐紀盾列古墳群に築造されたのはどうしてだろう。この古墳群の地域には、小さいながらも葛木神社というのがあるが無関係だろうか。
 この墓域には、仁徳天皇の皇后(二人の内の一人)で、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の母でもある磐之媛陵もあるから、文献上は不思議はないけれど。

0 件のコメント:

コメントを投稿