2020年7月12日日曜日

堺川尻の慰霊堂

2018610日に『継承する義務』とのタイトルで要旨次のとおり書いた。
   ▮ 去る者は日々に疎くなっていく。そういうテーマの場合、「語り継ぐことが大切だ」という言葉をしばしば聴くことがあるが、といっているうちに記憶が霞んでいく。
 私は戦後の堺の街で育ったが、成人前後から故郷を離れたので思い出も徐々に遠ざかっている。戦争遺跡の話である。
 何回かブログに書いたことがあるが、大空襲では堺の環濠(土居川)が死体で埋まったという。
 私は空襲それ自身は知らないが、戦後すぐに宿院町西の土居川河川敷(川尻)あたりに慰霊堂が建てられて供養が行われていたことは覚えている。
 私は母に連れられて御詠歌の席に連なったことが度々あった。
 しかし、堺の歴史、郷土史の類にはそのことが全く出てこない。
 そして私も、その慰霊堂がどこにあったかの記憶もあいまいになりつつある 

 例えば、大阪歴史教育者協議会堺支部発行の『歴史たんけん堺』には、堺市戦災殉難之地記念碑(戎島町3丁)が大空襲被災40周年に建てられ1985年以降毎年「‥祈念する集い」がもたれていることや、戦災無縁地蔵尊(住吉橋町1丁)が1954年に祀られるようになったことはあるが、どちらの場所も年代も私の記憶の慰霊堂ではない。

 東京大学史料編纂所編『日本史の森をゆく』中公新書の中で小宮木代良氏が『歴史資料と言説』という章で次のように述べている。
 ▮ 過去の出来事(事件)について、その「事実」に関しての共通認識といえるものが、その社会内で存続しうる条件は、事件後70年目あたりを境目に大きく変化するのではないか ▮

 そして私の経験も70年を超えようとしている。
 そんな「もうだめだろうな」といった気持ちでいたとき、読み飛ばしていた本の中に貴重な証言を見つけた。
 本は昭和54年(1979)発行の山中金治著『堺旧市雑史録』の「川尻の今昔」という章に次のとおりあった。
 ▮ 太平洋戦争の戦火は…川尻一帯は勿論のこと、阪堺線の龍神駅ガード下などでは、焼夷弾の直撃による火災によって、逃げ場を失った住民が無慮数百名、あまりにも酷い最後であって、その姓別すらも分らぬ多数の人々が立ったままの姿で最期を遂げていたのであった。
 尚又、旭川や内川などにもこれ又逃げ場を失って飛び込んだ数知れぬ人々が、火災による熱気によって湯の如くなった川底に死んでいった光景は、思い出せば身の毛も寒々する戦災の悲惨事であった。
 …そしてこの川尻の一角に、戦災のために尊い命を亡くした多くの人々の霊を慰めるお堂が建立なって、毎年79日の命日には残された住民達によって、温い施行が行なわれてきたが、現今その意義深いお堂は取壊されて、近頃開発された大仙公園内にある市の慰霊塔※の中に移されてしまったが、しかし川尻における戦災の焼死者の霊はあくまで川尻に止まるものであり、この地において慰霊の行事のあることが望ましいとの声は、私達の胸に強く響いてやまない ▮ ※大仙公園内の平和塔は昭和46年(1971)建立。

 この「現今取壊された慰霊堂」が私の記憶の慰霊堂で、今で言えば、堺市堺区宿院町西4丁の川沿い辺りであった。昭和20年~30年代、そういう慰霊堂が存在してお詣りがされていたのだ。(私のぼんやりした記憶では昭和33年(1958)頃???にお詣りした記憶がある。「移されてしまった」とするなら昭和46年(1971)頃に取り壊された?)

 総代のように世話をしてくれていた方の名前も忘れた。ブログのどこかに書いた気がするが…、その方と一緒に世話をしてくれていたのは西垣さんだった。
 ほとんど他人の文章のコピーだが、とりあえず文字に残せてホッとしている。

   「継承」は誰もが言うが難しい

3 件のコメント:

  1. すがおちゃん2020年7月13日 13:45

    (FBへのコメントを転載) ありがとうございます。山中金治さんの「旧堺雑史録」の「川尻の今昔」のページ読ませていただきました。川尻の名が停留所にしかなく、宿院西のごく一部だけと思い込んでいましたが、大町まで含め住吉橋の東詰までだという書き出しから驚きました。しかもチリヤタラリ川という川の川尻だっ  た・・・?!など、山中さんの本はやっぱりしごい。    
     慰霊堂のこと、前に聞いたことはあったのですが、詳しくはわかっていませんでした。ほかに記憶されている方がおられたらいいですね。 なお、フェニックス道路の北側、2014年甲斐之町西3丁土居川(内川)の河川敷に堺市戦災死没者遺族会による慰霊碑が建てられています。

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  2. (FBへのコメントを転載) コメントありがとうございます。この慰霊堂は地図に矢印をしましたようにフェニックス通りの南側の宿院町だと思います。戦後慰霊堂を建立した篤志家がいたことを心に留め置いていただければ幸いです。その方のお名前が出てきません。ご子息がおられるならゼンリンの住宅地図でもあれば何か記憶が出てくるかもしれません。昭和46年と思われる「取り壊し」の経緯や事実をご存知の方はどこかにおられないものですかね。

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  3.  そうだ! 確か大西さんというお名前のような気がする。違うかな。河盛市長の時代、街のなかなかの有力者だった気がする。

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