2020年7月23日木曜日

餅つきの歴史を考える

 711日に『月と兎とカン・ハンナさん』を書いて、① 竪杵(たてきね)と臼(うす)で搗(つ)いているのが薬草ではなく餅だという共通認識、つまり餅つきが庶民に広まったのは吾妻鑑あたりからすると鎌倉時代ではないか、② 単独の兎が月に居るという共通認識が広まったのは、平安末期に編まれた『今昔物語集』が一定程度庶民に広がった室町時代ぐらいではないか、というような「勘」の下に文章を書いたが、その後「その文章は正しかっただろうか」と鬱々として考え続けてきた。結構多くの本を読み返しながら考えた。
 その結果、鎌倉や平安というよりも、もっと遡ってもいいような気になりつつある。それは『今昔物語集』の方(兎の方の話)ではなく、特に『餅つき』の歴史をもっともっと遡ってもいいのではないかという考えによる。その理由を書いてみたい。

   1 日本列島の文化の基層は「照葉樹林文化」と名付けられていて、ヒマラヤ山地の中腹あたりから東へ、ネパール、ブータン、アッサムの一部を通って、東南アジア北部山地、雲南・貴州高地、長江流域の江南あたりと共通する文化的特質が強く指摘されている。
 その一つが食の好みで、中国北方(中原)やインド以西と明らかに異なっていて、いわゆるモチモチ、ネバネバ食を忌避しないか若しくは好む特徴がある。

   2 稲作以前に焼き畑農業があった(地域によっては今もある)が、「照葉樹林文化圏」の畑では雑穀の中でもモチモチ種が好まれ、サトイモ(タロイモ)も同様の傾向がある。そしてイモ類を主食とする太平洋の島々では、ハレの日には加熱したイモ類を杵と臼で搗いて餅状にして食べる文化がある。日本文化の基層にも同様のことがあったとみるのが妥当ではないか。

   3 現在普通に食べている米(稲)が比較的モチモチしたジャポニカ種で、インド以西のインディカ種と食感が大きく異なることは常識に属している。その好みの理由の一つは前述したとおりの、先行した焼き畑農業の時代からのモチモチ嗜好があったためではないか。

 4 稲作は、つまり弥生時代は紀元前3世紀頃(もっと以前からという説もある)から始まったとされているが、炊事用と思われる土器は鍋というよりも多くは蒸し器(甑(こしき))であり、稲(米)や、雑穀でも例えば糯粟(もちあわ)は、蒸しあげて、おこわのようにして食べられていたらしい。おこわと餅は兄弟のようなものではないか。

   5 写真1は神戸市出土の桜ヶ丘5号銅鐸の絵で弥生中期(紀元前1世紀?)とされている。写真23は奈良の唐古・鍵遺跡出土の竪杵と臼でこれも弥生中期とされている。
 私の個人的な感想を言えば弥生の出土品の中には「これは昭和30年頃までうちの家で使っていました」と言っても不思議でないほどのものが少なくない。弥生の技術や文化を馬鹿にしてはいけない。
 そこで、一般には脱穀・精米に使っていたといわれる竪杵と臼なのだが、イモをつぶしたり、蒸した米を搗いて餅に加工しなかったと誰が断言できるだろう。ここが今日の私の記事の最大テーマである。

   6 餅は山城国風土記や豊後国風土記にも出てくるから、少し大胆に想像すれば弥生時代から搗かれていたのではないだろうか。文献史料の乏しいのはしようがない。それよりも、現代の感覚でコメは普通は炊いていた、ハレの日だけ餅を搗いたというような固定観念で考えない方がよくないか。

 ※ 冒頭の照葉樹林文化については著名な博物学者(一般には植物学者)中尾佐助氏の文に学んだことが多いが、7月19日朝日朝刊の鷲田清一『折々の言葉1879』は中尾佐助氏の言葉であった。・・・民族学者の梅棹忠夫は先輩の植物学者中尾に議論をふっかけるといつもこう返されたという・・・「君、それ自分で見たのか」
 ヒトの本ばっかり読んでこんなブログ記事を書いて恥ずかしいが、文化のルーツを考えるのは非常に楽しい。

0 件のコメント:

コメントを投稿