2020年7月30日木曜日

南方から来た人と文化

 23日に『餅つきの歴史を考える』というタイトルで、「餅つきは実は弥生時代にはもう始まっていたのではないか」という大胆な推論を書いてみた。
 その根拠のキモは「日本列島(主に西部)の文化の基底は照葉樹林文化である」という所にある。
 図式的に言えば、日本列島の文化の入口は3つある。大陸・朝鮮半島から主に北九州に来た文化、シベリア・樺太・北海道からの文化、そして南方から島伝いに入ってきた文化で、私の推論はこの南方からの文化を重視したものであった。(大陸沿岸を北上して朝鮮半島南端からも含む)
 確かに水田稲作はおよそ3000年前に朝鮮半島南部から北九州に伝えられたというのが定説だが、それ(弥生)以前にタロイモや雑穀の照葉樹林文化が入っていて、その文化はモチモチ好きであった。故に、脱穀に用いられた竪杵と臼で、弥生時代には蒸した米を餅に搗いたこともあったに違いない・・というものだった。

   しかし、弥生以前に、例えば長江下流を出発したボートピープル?が徐々にでもあっても日本列島まで到着できただろうかという素朴な疑問があるが、昨年夏に国立科学博物館が主導した台湾→与那国島の、30000年前の古代葦船による再現航海の成功を思い起こすべきだろう。

 それよりも、さらにはるか以前に、アフリカを出発してアジアを東進してきたホモサピエンスの一群が、東南アジア諸島、オーストラリア、ニュージーランド、さらにはポリネシア、ハワイ島にまで海上を移動できていた事実を直視すべきだと私は考える。

 DNAから見た最新の研究では、日本人は従来言われてきた比較的単純な二重構造や三重構造というよりも、様々な経路で大陸からやって来た多様なグループ(ミトコンドリアDNAハプログループ)の混在だと言われている。
 
 時代は全く異なってイメージの話だが、古いテレビの番組で戦前の長崎が紹介されていて、「(戦前)東京には行ったことはないが、お盆とお正月前には上海に買い物に行っていた」と古老が語っていたのが印象的だった。
 現代の感覚で世界を見たり、古代や弥生時代さらには縄文以前をただただ半ば野蛮で技術や知識の低い社会と思い込むのはよくないように思う。

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