7月12日に『堺川尻の慰霊堂』をこのブログに書いて、消えかかっている記憶をとりあえず文章にしたところ、宿院町東の調御寺(ぢょうごじ)の加藤弁英師から「図書館に昭和45年の住宅地図がありました」と親切な郵送があった。
12日のブログでは、宿院町西4丁あたりと書いたが、地図では西3丁が正しいようだ。しっかりと『堺市戦災慰霊堂』と記されている。
私の記憶では、総代のようにお世話していただいていたのは大西さんと言ったように覚えているので、南西に4軒隣の『大西』さんの可能性が高い。
さらにお手伝いしていただいていた方で名前の記憶があるのは『西垣』さんで、23番地と記されているところにおられた。これは間違いない。
昭和54年に発行された山中金治著『堺旧市雑史録』の「川尻の今昔」記載のとおり、昭和45年の住宅地図には明確に記されているから、昭和46年に建立された大仙公園内の平和塔内に移されたのだとしたら、取り壊される最後の姿を示した住宅地図だと思う。
「平和塔」建立関係の史料があれば、この「慰霊堂」が何年にどういう経過で建立され、どのように慰霊の行事などが続けられてきたのかもわかるかもしれない。
堺の郷土史、現代史に興味のある方々には、ちっぽけなことかもしれないがこんな歴史のヒトコマも知っておいて欲しい。
戦争の悲惨さを伝える記憶はなくしてはいけないと思います。毎年、7月10日に行われる堺大空襲により亡くなられた方々の鎮魂の集会に参加しています。戦争体験のお話を何度聞いても心震える思いがします。戦争体験のお話をしていただける方が次々に亡くなっている今、戦争の悲惨さを次の世代に伝えていかなければならないと思います。
返信削除弁英師、コメントありがとうございます。毎年7月10日の集会に参加されている由、敬服しております。
返信削除普通なら「街というのは屋敷と田畑でなっているもの」と思うでしょうが、私は小学生の頃、「街というのは家と焼け跡でなっているものだ」と本当に信じていました。
旧堺市内は洋館建てが多かったのでしょう、遊び道具の綺麗なタイルには事欠きませんでした。
今の小学生には戦前はおろか
そういう戦後も江戸時代か戦国時代の感じではないでしょうか。
知っていることを語ったり文字にしておくことは喫緊の課題です。
我々世代がその任務を負っていることを感じました。
返信削除ひげ親父さんもご存知のとおり堺には「平和のための戦争展」などを立派に継続されている人々がたくさんおられます。各地の戦跡や先輩諸氏の証言なども立派に積み上げられています。
返信削除そんな人々に「川尻の慰霊堂」を話したところ誰もご存知なかったのです。
そのときに私は「歴史はこのように埋もれてゆくものか」と寂しくなりました。そして「川尻の慰霊堂」がズーッと胸の奥に引っかかったまま来ておりました。
そしてこんなことは、我われの世代の者なら多かれ少なかれあるのではないでしょうか。文字に残すことが今こそ大事だと思います。もうすぐある意味タイムアウトです。私の記憶もそうなりつつあります。
OB会の会報ですが、「私たちの戦中、戦後」というような大テーマで、会員に原稿の提供を呼びかけたら面白いものができるように思います。面白いだけでなく、我が会や後輩たちなどなどにも意味のある宝物にならないでしょうか。
この記事の執筆を通じて、そんな夢を私は見ています。
「堺の郷土史の定説のようなものがおかしい」と、私の記憶を弁英師がフォローしてくれたのは今回が初めてではない。2019年8月6日『住吉祭の現代史』に書いたとおり、定説になりつつあった「住吉祭の大和川神輿渡御が1941年に中止され2005年に復活された」というのが間違いで、「1949年から1960年の間もあった」というのを住吉大社宿院頓宮に確認してくれたことも、歴史を正確に残すという意味では貴重な財産になったと思われる。
返信削除読ませて頂きました。慰霊堂そばの大西さんが 代表でなさってて父はお手伝いしてました。
返信削除大西さんが亡くなられた後だったか父が東京で開催される慰霊祭に行ってた事もありました。
私も子供の頃よく遊んでいた所だったし慰霊祭の時も母の手伝いをしてたような気がします。
慰霊堂はどこに行ったんだろう?と思ってましたが大仙公園が出来た時に移されたんですね
私はS50年に転勤で千葉にきましたが46年に慰霊堂が移された時の事は 全然頭から抜けてしまってます。
90才近い姉達が何か覚えているか聞いてみますので分りましたらお知らせします。
西垣さん、ご返事ありがとうございました。もう少しで歴史から抜け落ちてしまいそうだった事実を確認できてホッとしています。
返信削除兄達に慰霊堂の事を聞くと 両親ともよく手伝いに行ってたねとすぐ上の兄も あそこでよく遊んだな~!と懐かしそうでした。
返信削除そばに住んでられた(今もお住まいです)渡辺さんのお母さんもいつも一緒に御詠歌を唱えてられたと思います。
姉が最近?大仙公園へ散歩に行き 奥の方にある慰霊堂に初めて気が付き お参りして来たそうです。
姉が小学生の頃から川尻に住んでいて戦争の頃 は 母の実家和歌山に疎開していて堺の空が真赤に燃えているのが 見えたそうです。
その頃住んでいた近所の方の名前や幼なじみの人の名前を慰霊堂の石碑にみつけここに居たのとお参りして来たと話してくれました。
私達も近くに住んでいる姉達も 今まで気がつかなかった程忘れられてました。