2020年6月28日日曜日

良心と偽善のあいだ

 昨日は関電の株主総会について「倫理がかけている」と書いたが、保阪正康著『昭和史の本質』(新潮新書)のサブタイトルが『良心と偽善のあいだ』であった。
 丁度、エールの主人公古関裕而にもかかわる部分で次のような文章があった。

▮昭和20年1月に西條八十作詞、古関裕而作曲で「比島決戦の歌」が発表された。この中に「いざ来い ニミッツ マッカーサー 出てくりゃ 地獄へ 逆落とし」という何とも品のない一節がある。西條八十ともあろう作詞家がこんな表現をするだろうか、との感想が湧く。これが戦時下の国民歌謡というわけだ。
 戦後になって明らかになったことだが、西條はむろんこんな詞は作らない。陸軍の将校が、ニミッツやマッカーサーの名を入れろと命令する。西條はとんでもないと譲らない。あまりのしつこさに、西條は「レイテは地獄の三丁目 出てくりゃ地獄へ逆落とし」と直したのだという。ところが陸軍側が勝手に、「ニミッツ、マッカーサー」に直してしまったそうだ(塩澤実信『昭和の戦時歌謡物語』)。
 ・・・戦時下社会は分析すればするほど、偽善が横行していたことがわかる。負けているのに勝っているとの国家的キャンペーンから日常のモラルまで、そのすべてが偽善化していた。その結果、どうなるか。麻痺状態になるのである。客観的判断が失われ、主観的願望が社会の常識になる。・・・実は戦争の怖さは、そういう人格障害的な空間になり、そこに生きることはなんらかの病理的な現象を伴うということである。▮(引用おわり)

 それにしても、作家や音楽家などなど「世論」に影響を与える人々の果たした役割は大きかった。さて戦後民主主義と教育、教養はそれを克服しただろうか。
 政府・与党が電通を利用する。大阪府市政・与党がヨシモトを利用する。
 現代社会の病理は戦前に近づいていないか。


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