2013年1月19日土曜日

こじゅうた 餅きり鉋(かんな)

  先日、入居している施設で餅つきのあった義母が外泊で我が家に着くなり、「餅つきをしましてん」と、〈返し手〉の動作を身振り手振りで私に報告してくれた。
ネットから「こじゅうた」
  「誰か!したい人!」との呼びかけに進み出たのだと自慢げだった。(実際には真似事のようなことをチョッとしただけだろうとは思うが)
 そして、その「餅つきをした」ということに触発されて、これまで何回も聞かされた昔の餅つきの思い出をまた語ってくれたのだが、改めてじっくり聞いてみると今までの私の理解と異なったところが少し見え出した。
 その一つが「こじゅうた」で、私は今まで単純に餅箱の別名だと信じていたのだが、「かき餅を作るときには餅箱ではなく「こじゅうた」で厚さ10㌢弱の大きな長方形の餅を作るのだ」と言う。

ネットから「カンナ」
  よくよく聞いてみると、義母の実家には餅箱やその蓋以外に「こじゅうた」というものがあったらしく、それは元々の「麹蓋(こうじぶた)」が訛ったものらしい。
  これまで、妻も普通に餅箱のことを「こじゅうた」と呼んでいたが、今回改まって母が解説したところ、それは微妙に違っていたということになる。

 さらに、餅きり包丁以外にかき餅用のカンナがあったらしく、尋ねる私にそれを絵にかいて説明してくれた。
 『かき餅はネコ餅を薄く切って作る』という程度の私の理解だったのだがそうではなく、「こじゅうた」で作った分厚い長方形のお餅を縦に立て、それを専用のカンナで削ぐのだと。
  おやつでも何でも自給自足であった戦前の農村では、それなりの道具やノウハウが想像以上に進化していたのだ。
 軟弱な町の子には初めて聞く話ばかりだった。

ネットから「カンナ」

 そして毛糸を使って乾し方も実演してくれた。
 さらにさらに、アラレのことをキリコと言っていたことも。
 ・・・・これらは戦前の生駒谷の話である。
 といっても、文化史的にはついこの間のことである。
 (ネットで見つけた写真は生駒谷とそれほど遠くない大和高田の旧家のものだからほゞ同じものだろう。遠ざかる記憶を語る義母の話からここに到着するまでには、実際には相当な時間が必要だった。)
 以前のブログに書いたが、私は餅つきについては半ば素人である。それに対して師匠筋にあたる妻もいざ聞いてみるとこれらは「知らなかった」と言う。
 何十年も前に柳田國男や折口信夫が「今のうちに記録しておかないと途絶えてしまう」と心配したこの国の伝統も、ほんとうに今では、音を立てて?忘れ去られようとしている。
 民俗学の対象は離島や僻地だけではない。
 私自身気づくのが非常に遅かったが、親がご存命の皆様は今のうちに私たちの文化の深層を記録すべきだろう。
 「介護民俗学」は時間との勝負になっている。

2013年1月17日木曜日

便所コオロギとはあんまりな

  1.17阪神・淡路大震災から18年。いろんな記憶がよみがえる。
  歳がいくと18年なんて昨日のことのようにアッと言う間であるが、同じ18年でも、自分が生まれる前の18年の歴史を実感することは難しい。
  それができるかどうかが、本当の意味での「歴史に学ぶ」ということなのだろうが、安倍首相や維新の橋下氏にはそれが欠けていると私は考える。
  と、マクラを強引に振っておいて、今や18年以上の歴史の彼方に忘れ去られようとしている昆虫の話に無理やり持っていく・・・・。
 
  左のこの虫を見て「キモい」と言うか「懐かしい」と言うかで実年齢が判るかも・・・・。
  もちろん、私は涙が出るほど懐かしい。
  第一に、昔は家の土間などに普通にいた。
  ところが近頃はほんとうに見なくなった。
  だいたいが土間らしい土間ももうないし。
  本には「跳躍力がすごい」と書いてあるが、私の感覚で言えば比較的動きは緩慢。
  だから此方が幼児でも捕まえられたという記憶がある。
  別に声が良いわけでなし、色が綺麗なわけでなし、大方からは特別に注目されることもない、地味で可哀相な?竈馬(カマドウマ)。
  まあ「竈馬(カマドウマ)という名前は風流」という文章もあったのがせめてもの救いだろうか・・・。
  それを俗称とはいえ「便所コオロギ」とはあんまりな。
  大寒波の日、木切れを動かしたら見つかった。
  写真を撮ってから、写り具合を見て、もう一度撮り直そうと思って行ってみたらすでに影も形も判らない。
  老人の懐古趣味になんかに付き合っていられるか・・・と言ったところか。
  それにしても、元々寒さが苦手で人家に忍び込んで来るんだと勝手に思い込んでいたが、こんな寒空の下でもノソノソとそれなりに動き回る生命力は凄いの一語。カマドウマ、オソルベシ。
  虫は世につれ~、パッとしない風貌から普通には不快害虫に分類されているのだろうか。
  その不当な評価を考えると、ちょっと助けてやりたくなる。
  16日朝日新聞夕刊に「日本家庭用殺虫剤工業会が虫慰霊祭をとりおこなった」と大きく書いていた。それもありだろう。

  書物によると、「一ト跳びにいとゞは闇へ帰りけり・中村草田男」というように竈馬と書いてイトドと読むらしいが私は全く聞いたこともなかった。その他の名前としては、カマドムシ、オカマコオロギ、ハダカコオロギ、エビコオロギ、オサルコオロギで、・・・やはり、ちょっとな~

2013年1月15日火曜日

とんどのまねごと

我が家のプチとんど
  1月15日は小正月。
 だいたい我が家ではこの日に「とんど」の真似事をすることにしている。
 お正月飾り等一式はゴミに出すのも引っ掛かるので、近所に迷惑がかからない程度のプチ「とんど」をする。
 が、今年は義母の外泊に併せて13日にチムニーを用いてうやうやしく挙行した。
 そして、用意しておいたサツマイモをアルミホイルに包んで熾火(おきび)に埋めた。
 実は先日、熾火になるちょっと前に放り込んで見事な炭を作ったものだから、今回は慎重に慎重に「調理」した。
 この「調理」も、経験以外のレシピはないだろうから、出来るだけ早く子供たちにも伝えたいが、子供たちは「そんなことはどうでもええ」と乗ってきてくれない。なら、次は孫である。息子夫婦は「余計な迷惑だ」と思うだろう。
  「たき火で焼き芋」もほぼ死語になり、あの唱歌が音楽の教科書でなく歴史の教科書に載る日も遠くなさそうだ。
 焼き芋はほぼ完璧だった。おかげで義母が懐かしんで「美味しい」「美味しい」と喜んでくれた。
 よく考えると、こんな素朴な焼き芋は私にしてもほんとうに久しぶりである。
 我が家のお正月の行事もこれで無事終了と言ったところで、まずはめでたしめでたし。

 
 なんて言ってられない新しい年が始まっているが、小正月に免じて暫しお許しを。

2013年1月13日日曜日

もっと笑いを!

  11日に、初詣がてらに「初キンカン※」に行ってきた。(※..金関)
  曜日の夜に電本店前で脱原発を訴えるという市民運動で、誰に指示されたものでも依頼されたものでもない。
  動機はいたって単純で、原発事故は私が知っている、あるいは想像できる産業災害(労働災害等)とは質が違うと思うからで、孫の時代が悲惨な時代にならないようにと願うからである。
  地震大国上の(砂上の)原発は狂気の沙汰だと私は思う。
  結局のところ推進者の主張は、「利権を手放したくない。」「核開発技術を手放したくない。」以外になく、国民生活のためのエネルギーと言うのは真っ赤な嘘だと私は確信している。

  この運動の主催者もどんな人々か知らないのだが、私より若い人々が裏方をコツコツと継続しているのがいい。
  いつもは地下街を通って行くのだが、フェスティバルホールの新装を眺めるために地上を歩いたら、なるほど夜の「中の島」は美しく、素朴に感動した。
  東京の官邸前の行動では、選挙前には各党の国会議員も多数参加していたようだが、ツイッターで見た限りでは選挙後も愚直に参加しているのは共産党だけらしい。世の中というのはそういうものだろう。

  今回は、文言自体は問答無用の原理主義的で「ちょっとなあ」と好きではないのだが、あれだけ天下のNHKが前宣伝をしてくれたものだから『ならぬものはならぬのです』を自作ポスターに使わせて(パクらせて)いただいた。A4×2枚に印刷してA3のカードケースに入れたものである。
  私の希望は、味気のない「原発反対」のポスターだけでなく、毎回参加者が何かウィットに富んだ、あるいは美しいポスターを持参し合い見せ合う場になれば良いのにということである。
  実際、ペンライトの進化形のようなおもちゃや提灯その他、工夫を凝らした宣伝媒体も増えつつあり、それらを見物するのも楽しい。

  近所の大学の講義を聴講していたとき先生が、「東京の先生は勉強してそれをそのまま語るだけで良いので楽であるが、関西の先生はその上にどのようにウケる(笑わせる)かという技術が必要なので大変だ。」と言って笑わせたが、『市民運動にもっと笑いを!』も大切だと私は本気で思っている。
  お説教と自慢と嫌味からは運動は広がらない・・・と、はるか外野から小さな声でつぶやいている・・・というのが嫌味だろうか。
  6時半ごろから急に風が出てきて、安易な常套句過ぎるが体の芯まで冷え込んできたので、7時過ぎには「健康管理」を言い訳に友人と即効性のあるエネルギー補給のために地下に潜った。ああナントいう軟弱だろう。「こんなことでは原発は即時ゼロには出来ないなあ」と即効エネルギーの力を借りながら大いに反省を繰り返した。

2013年1月11日金曜日

青い目の福娘

  今年になって初めて電車に乗ってこの街から外に出て「えべっさん」(今宮戎の十日戎)に行ってきた。
  (ああ、なんという地味な日々だったんだろう)
 十日戎。 これは信仰というよりも体に染みついた習慣のようなもので、初詣には行かなくっても「えべっさん」に行かないと何となく1年が落ち着かない。
  露店を覗きながら、小さい頃、堺市戎之町の堺戎に行き、安物の土製の貯金箱を買うのが決まりのようなものだったことを懐かしく思い出した。
  そして、おたやんの福飴のことも・・・・・しかし、今は歯の詰物が怖くて手が出せない。

  ご存知のとおり、今宮戎では賽銭をあげてから先ず無料の笹をもらう。ここでエエカッコをして大きな笹をもらい、その笹にふさわしい縁起物を付けてもらうとエライことになる。
  私は「小ぶりの形のええのんをおくれ」と言って小さい笹をもらった。
  そして、「商売繁盛で笹もってこい」の喧騒の中を〝これと定めた福娘”に縁起物を付けてもらう。
  この、「ただの笹を持って行って縁起物を付けてもらう」というのも「笹もってこい」と言うぐらいの大前提と思っていたが、他の地のえべっさんでは最初から縁起物付きの笹を求めるようなところが多く、ほんのちょっとした違いなのだが、違和感を覚えたこともあった。
  で、・・・・今年は調子に乗って青い目の福娘に吉兆と箕を付けてもらった。ちょっとイチビリ過ぎたかもと少し反省。
  それから神殿の裏に回って思いっきりドンドンドンと叩いて「長谷やんでっせ。今年も頼んまっせ」と大きな声で「お参り」した。
  『えべっさんは耳が遠いから裏口から大きな声で頼まんとあかん』と言うのは大阪では絶対的な常識なのだが、西宮戎にはそういう習慣がなかったので、その時も、心の底から驚いたことがある。

  脱原発や平和、安全、安心を神頼みに丸投げするのは良くないが、ちょっとだけ「えべっさん」で今年も頑張ろうという気になった。あまりの単細胞ぶりがお恥ずかしい。

2013年1月8日火曜日

ロウバイは不思議不思議

  我が家のロウバイは冬至の頃からチラホラと咲き始め、右の写真は12月29日現在のもの。
  だから、太陽暦的に言って「1年中で一番早く咲く花」で「マンサクなんか目ではないな」と夫婦二人だけで自慢し合っている。(誰に対して自慢しているねん・・)
  そして、「それにしても、こんな極寒の、飛ぶ虫もいないときに、どうして花を咲かせるのだろう」とお互いに首を捻った。
  風媒花なのか、自家受粉か、真冬でも虫のいるような南方育ちゆえの体内時計か、もっと特殊な繁殖方法か、etc etc ・・・・
  そこで、「調査なくして発言なし」「1週間ほど二人でじっくり観察してみよう」ということにした。

  それにしても、・・・予想される仮説を考えると・・・・・・、
  多くの虫の飛んでくる季節は同時に花の季節でもある。
  花からすると虫をとりあうライバルも数多く、浮気性の虫たちをどう呼び込むかも厳しい競争社会。
  反対に、この季節は虫は少ないがライバルはほとんどいない。
  そこへ蜜を用意して香りをたなびかせればその虫を呼び込む確立は春から秋の比ではない・・と、ロウバイは踏んだに違いない。
  それは、ダーウィンの進化論を超えたロウバイのしたたかな意思、考え抜いた作戦では。
  ・・・・というあたりが模範解答にならないか。
 
  ところがところが、久しぶりの年末寒波ゆえか、予想していたアブ等は全く飛んでこない。全く飛んでこない。
  次に予想していたメジロは、ロウバイを余所に、冬枝に挿しておいた大して美味しくもないキワーノをつついて飛び去った。
  その次に予想していたヒヨドリは頻繁にやってきてロウバイの蜜を吸ったのはよいけれど、だが、コヤツの振舞は落花狼藉。蜜を吸ってから花を食べたり棄てたりする。つまりヒヨドリは受粉の仲人では決してない。
  う~ん、ロウバイの「実社会」も一筋縄ではいかないようだ。
  我が家のこの木は、毎年、少し汚らしい実(の袋)がはっきり生るから受粉していることに間違いはないのだが。
  だから、我が家の庭の極寒の特殊事情下の観察結果なのかも知れないが、真実はそれほどQ&Aのようには姿をあらわさない。
  にわか観察者の思い通りには世の中は行かないぞと、教えてくれている。
  よって、答はまた後日。

  「本には鳥媒花だとかいてあるではないか」「そんなの長谷やんの見てないときに虫が数匹は飛んできたに違いない。」・・・と怒るのは、ロウバイの香りでもかいで暫し待ってもらいたい。

  ロウバイは、凛と空気が緊張した冬空に素晴らしい香りを漂わせている。
  「甘い香り」と書いてある本もあるが、そんなありきたりの形容ですまない気品を感じさせる爽やかさである。
  鎮静・リラックス作用という薬効があると書かれている。

2013年1月6日日曜日

ルリビタキの初訪問

  本年初撮影にしては珍鳥だと思う。
  我が家から歩いて1分のいつもの歩道沿いである。
  藪の中でヒッヒッと声がしたので「ジョウビタキの♀か」と思って通り過ごしていたのだが、念のためと思い返して夕暮れではあったがカメラを持ち出した。
  すると、夕暮れの逆光の藪の中だから見間違いかもしれないが、尾の上が一瞬瑠璃色に輝いた。
  「ルリビタキの♀だ」と興奮してシャッターを押したのがこれ。
  別の後ろ向きのピンボケの方には尾の色が写っている。
  しっかりと撮影したいと、周囲の木になって藪から出てくるのをじっと待っていたら、妻が「なんか撮れたあ」と大声を出しながら散歩に出てきた。で、もちろんジ エンド。
  ルリビタキは、我が家の半径数百メートル内では今まで見なかった珍客だ。
  ♂なら背中全体が瑠璃色だが、欲は言うまい。
  何か今年1年良いことがありそうに思える初撮影となった。

2013年1月5日土曜日

葩餅(はなびらもち)は、むむむ

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉
  義母、義姉、息子ファミリー(含夏ちゃん)、娘夫婦が帰っていった。
  我が家のお正月が終わった。
  夏ちゃんのことをいっぱい報告したいが、今日はじっと我慢する。

  さて、今年から我が家のお雑煮は、九割方妻の引き継いできたヤマトバージョンにした。
  白みそは大阪型だが丸餅を焼いて入れる、そしてきな粉をつけて食べるというところがヤマト型である。(大阪市内は丸餅は茹でる。きな粉はつけない。)

  お雑煮の型ほど地域性が感じられ伝統が感じられるものはないとも言われるが、地域の中だけで結婚していた時代でもなし、「亭主関白で〇〇家の決まりだ」でもないだろうから、これから大きく変化していくのは避けられないだろう。
  でも、大きく崩れるのはちょっと寂しい。(これホンネ。で、妻も白みそで大阪型を残してくれた。)

  お正月に娘夫婦が葩餅(はなびらもち)を提げて来た。
  茶道では初釜に用いられる。
  元々は菱葩餅(ひしはなびらもち)といって宮中の新年のお餅とか。
  それは、径15㌢厚さ6㍉の丸餅を火であぶり、その上に長さ14㌢厚さ9㍉のあずき色の菱餅のあぶったのを重ね、二つに折り、間に甘く練った白みそをまぶしたごぼうの砂糖煮をはさんだお餅と書かれている。
  まあ、それが洗練されて今の形になったのだろう。
  私たち夫婦には好きな和菓子の一つである。

  その種のしきたり等に全く無頓着に育った娘であるが、年相応に気もつくようになったのかと胸をなでおろしたが、話をしているうちに「初釜つまりお正月独特の和菓子であったとは知らなかった」と、ただ「ケースの一番前に並んでいたので購入した」と、むむむむ・・・・・・

2013年1月3日木曜日

初夢は


  『一富士二鷹三茄子』については諸説紛々であるが、一富士の目出度さは感覚的に納得できる。
  現役時代、上司と度々上京したが、その目的は半分が陳情、半分が陳謝のようなものだった。
  陳謝というと、名ばかり中間管理職のときなどは「謝ってナンボ」と自分に言い聞かせていた。
  いずれにしても、その折衝次第で大多数の働く環境が決まるものだったから、それぞれが真剣勝負といったところで、富士川を越えてくっきりと富士山が見えると「よし、目的は適うぞ!」と勇気を充電し、見えないときには「壁が厚そうだから気合を入れなければ!」と言うのがその上司の口癖だった。
  このジンクスは、経験的にも何となく胸に落ちるものだったから、その後の人事異動や昇進後は、今度は私が後輩に「今日は富士山が見えたから上手くいくぞ!」などと伝承した。
  そのジンクス?は、今も伝わっているだろうか。

  二鷹の鷹は鳥の王。この目出度さも説明はいいだろう。
  で、・・・つい先日、平城宮跡大極殿前で撮影した(鷹の一種)長元坊を掲載し、ブログ読者の皆さまの本年のご多幸をお祈りしたい。
  それほど高くない地点で猛禽類がホバリングする姿はゾクゾクっとする感動ものである。(「何にそんなに感動すんねん」という声も聞こえてきそうだが。)
  平城宮跡の大規模舗装で「地下の木簡の破壊が心配だ」と旧冬のブログに書いたが、ここ(平城宮跡)はそういう歴史的意義とともに野鳥の楽園、貴重な自然の宝庫であることも皆さんに知ってほしい。
  木簡も野鳥も目先の金儲けには役立たないが、それを守るのが知性ではないだろうか。

  先の選挙では、民主主義の理念と背反する小選挙区制の結果、民意と相当乖離した内閣が誕生したが、ご祝儀相場はそんなに長くは持たないだろう。
  三茄子が「成す」の語呂合わせなら、夏の参議院議員選挙では理性的な声の前進を「成し遂げ」たい。
・・・・・という初夢三題話では、夢は小さすぎるか?

2013年1月1日火曜日

頌春

  私が絵付け(の真似事)をした奈良の伝統工芸品である一刀彫の「巳さん(みいさん)」をここに掲載して皆様方の新春を言祝ぎたい。・・と、「寿ぎ」の押し売りをする。
  嘘でもよいから、ここは「こいつあ春から チョン 縁起がいいわえ」 と応じてもらいたい。
  奈良の一刀彫は平安後期に春日若宮おん祭に使用された木彫人形に源があり、能人形、雛人形、五月飾り、干支、鹿が彫られていて、このほかの題材は「奈良一刀彫」とは言わず単に「木彫」と呼ばれるようだ。(そんな薀蓄は知らなかった。)
  この写真の巳さんの材質は高級品ではないが、切口から素晴らしい香りの漂う楠である。
  「なら工藝館」の先生に「私も彫らしてほしい」と言ったが「必ず手を切るから」と、それは叶わなかった。これは誇張でなく工藝館の教室のたびに救急車が必要なほどの怪我人が出るそうで、労働災害関係の知識からすると、ここは安易な真似仕事はしないほうが善いと引き下がった。
  しかし、胡粉(ごふん)を膠(にかわ)で溶いて磨り潰したり、絵付けだけでも結構な作業で、これに岩絵具や金箔まで使用すると、あの結構な完成品の値段もなるほどと納得できる。
  「もっとリアルに彫りたくないですか?」と質問したら、「リアルな木彫は簡単だが、このデフォルメされた鑿(ノミ)跡の残る切口で躍動感や重厚感や静寂感を表わすのが難しい」との回答。現に、先生(作家)の一刀彫ではない方のリアルな木彫は見事な出来栄えだった。ふ~ん、そういうものなのか。ちょっとだけ目から鱗。
  正直に言うと私はこれまで奈良の一刀彫について、「あまりに彫りが粗すぎる」「彩色が木彫の好さを消している」「高価すぎる」とあまり好印象は持っていなかったが、ほんとうの職人(作家)の話を今回聞いて、心の底から反省した。先生に「こんな高額で何方(どなた)が購入されているのですか?」などとほんとうに失礼な質問をしてスミマセン。
  芸術にしても工芸品にしても政治にしても、近頃は紛い物が多く、かつそれが見事にホンモノであるかのような嘘や錯覚やムードがあるが、新しい年はじっくりとホンモノを応援したいと考えている。
  今年はこのブログも、「一見それらしい常識を疑いホンモノを探す」というのをサブテーマに据えようかと思う。
  後ろで妻が、「お父さんの話はいつも大袈裟やねん」とチャチャを入れているが。

  ・・・・今年はコメント欄がフォーラムのようになればと夢見ている。どうかよろしくお願いします。

2012年12月30日日曜日

鳥納め

  庭のバードテーブル(餌台)にやってくる中で圧倒的に多いのは当り前のことであるが雀である。
  「なんや雀か」と言わないでほしい。
  現在急速に人間界周辺から姿を消していると言われている。
  (我が家周辺ではそういう実感はないが、新聞や本ではよく言われている。)
  それに、頬に黒い墨をつけたその顔は、じっくり見ると結構愛嬌がある。
  近頃の子供達で雀を絵に描いて見せられる子が幾人いるだろう。
  それほどに近い存在ではもはやなくなっている。

  それを窓の内側から見るともなく見ていると、どことなく神経質そうな、落着きのないときがある。
  どこがどうと具体的には言えないが、どこか様子がおかしいときがある。
  そんなとき、ヒューっと真横から何かが刺す様に飛んで来て、バタバタバタバタと、一瞬我が庭が修羅場と化す。百舌鳥の狩猟である。(雀はやはり殺気を感じていたのだろうが、・・・・)
  私の作ったバードテーブルのせいで犠牲が出るのは心が穏やかでない。
  後悔のような気分も湧いてくる。
  しかし、百舌鳥にとってはこれが死活問題の「なりわい」でもある。
  これもまた厳粛な自然の掟・・と、静観している。
  ただ、心のザワザワは続いている・・・・・
  自然は優しく厳しい。
 
  今年も我が家から半径数キロ以内の身近な鳥たちを数々紹介してきたが、・・・・・と言うことで、ちょっとだけ悪役になった百舌鳥の写真で『撮り(鳥)納め』にしたい。
  百舌鳥は鳥の中では際立って頭(の比率)が大きい。
  人間で言えば乳幼児の体型である。つまり可愛い。だが実は獰猛な猛禽類。
  つまり、ものごとは「見た目」で判断してはならない。
  それを2012年の自戒(教訓)として来年に臨みたい。

  みなさま どうか よいお年をお迎えください。

2012年12月28日金曜日

古墳を造る

右の方に伸びる前方部は18㎜広角レンズにも収まらなかった
  奈良県の北端近く、平城宮跡北側の佐紀盾列(たてなみ)古墳群の中に『コナベ古墳』(陵墓参考地)がある。
  過日、この古墳の1/2の古墳を運動場に地割する作業が奈良市立一条高校を会場に行なわれた。
  同趣旨の実験は1981年に堺市立西百舌鳥小学校で経験済らしいが、巨大古墳発祥の地ここ大和では初めてのことらしい。
  このプロジェクトのリーダーの宮川徏先生の説では、いわゆる前方後円墳には明確な設計思想があり、後円に対してどういう比率の前方部が造られるかで大王墓であるか否か、あるいは王統の系列が解るとのこと。
  特に墳丘長をひとからげに大きさの基準にして論じている多数の学説に対して「それは違う」と主張されている。(こういう論争を外野から眺めているのはとても楽しい。)
  私は、宮川説の全てについて理解し納得しているものではないが、何はともあれ貴重な実験であるので参加した。
  棒と糸と勾股玄(こうこげん、3・4・5のピタゴラスの定理)だけで書いたのだが、コナベ古墳の1/2でも運動場いっぱいに広がった。
  これが、一人の人間の墓である。(正確には多くの古墳は複数者が葬られているが。)
  その巨大さを改めて実感する。
  神仙世界への成仏を求めたのか、「よみがえるな」と祟られることを怖れたのか、盛大な首長権の移行儀式の会場だったのか、王権の力の誇示か、主従関係のシンボルか、・・・・それらがどの様に変化していったのか。 謎解きに終わりはなさそうだ。
  なお、少なくない前方後円墳は横から眺められることを前提に築造されているらしい。それは、小さい頃私自身が眺めながら育った伝仁徳天皇陵を見ても納得できる。あれは大浜側から見上げさせて、西日本の首長や大陸からの使者達に「まいったか!」と恐れおののかせていたに違いない。
  実際の継体天皇陵といわれる今城塚古墳も、横の堤上に素晴らしい形象埴輪によるジオラマが荘厳に飾られている。
  だとすると、「前方後円墳」という名称も、もちろん宮内庁が前方部に造った鳥居も大いに不適切だと言わなければならない。
  世の常識とは、とかくこのようなものである。
  権威や常識から自由になる。・・・・・・・・これ、実際には結構難しい。

閑話休題
  古の「しきたり」に思いを馳せたついでに・・・・我が家では質素なお正月しか準備していないが、それでも、若干の「しきたり」めいたこともする。
  そんな私を、妻と子供たちは、「外を向いて言うてること(一切の旧弊に捉われるな等)と内で言うてることが違うなあ」と笑い飛ばしている。
 ・・・・・で、祝箸 にはそれぞれの名を書いたが、私は悪筆なのでシール印刷させてもらった。「ナニ、印刷など言語道断だ」と指弾しないで貰いたい。このあたりが私(わたくし)的思考である。
  取り箸は「海山」とか「組重」と書く家庭もあるようだが我が家は「山海珍味」と書く。読者の皆さんはどう書かれます? 楽しい大晦日からお正月の貴家の「しきたり」などあればコメン トお願いします。

2012年12月26日水曜日

冬の雲雀

  この鳥は、冬の草原に10羽を超える集団で行動していたので、てっきりセキレイ科のタヒバリだと信じて撮影して帰ってきた。
  しかし、写真を良く見るとヒバリ科ヒバリ・・・・・つまり、普通のヒバリのようである。
  考えてみると・・・そういえば、セキレイ科独特の動作がなかったし、頭の形がタヒバリではなさそうだ。(中にはタヒバリみたいな頭もあるのだが・・・)
  で、タヒバリかヒバリかで1週間ほど悩んだ。 
  このように悩むのも、「ヒバリは春」「集団ではなく、それぞれの縄張りを囀って主張する」「地上に降りたヒバリは隠れてしまう」というような思い込みがあったからだろう。
  だから、例の高らかな囀りも、そのためのホバリングもなかった冬のヒバリが別モノに思えたのだと思う。
  「非繁殖期には小さな群で生活する」というようなフィールドガイドの解説なんか知らなかった。ヒバリが群れるって・・・?知らなかった。
  既成概念というか、思い込みで眼(マナコ)は曇りに曇るものである。
  しかし、そういう逡巡の後やっぱりヒバリだと思うと、この寒風の向こうには春が待っているという感覚が湧き上がってくる。
  これもノーテンキな思い込みだろうが。
  いや、それは真実である。

2012年12月24日月曜日

俺がこんなに強いのも

  私は毎日、㈱アルプスのコンコード赤ワイン辛口という酸化防止剤無添加の安物の「癖のない」赤ワイン、あるいはそれと同等品を嗜んでいる。
  それを知って息子のお嫁さんが、先日、クラッカーとチーズを提げてやって来てくれた。ありがたいことである。
  そのクラッカーがなんと、前田製菓のクラッカーだったから珍しいので驚いた。
  CMのキャッチコピー「俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー」は、私達の世代の関西人なら知らぬ者はいない。
  さらにその大きな工場は我が故郷堺市にあり、その工場周辺はいつも美味しそうな香りが広範囲に充満していたから、そんな記憶も交えて懐かしいクラッカーだった。

  そしてチーズは、私の好きなカマンベールチーズと一瞬思ったが、よく読むと『ブリーチーズ』(Le Brie)とあった。それって何?
  調べてみると、フランスはブリー地方の白かびチーズの本家のようなもので、カマンベールチーズはその分家筋に当たるという、そんな能書きは不要の、とろけるような「癖のない」美味しいチーズで、ちょっとこれは虜になりそうな危険な代物だった。

  照明を落としたテーブルで、このチーズにコニャックを振掛けて火を点し、青白い炎で温まったところをワインの肴にしたいが、老夫婦だけでは今更そういう気にもなれず、次に息子夫婦とチーズが好きな孫がやって来たときには・・と思うが、それまでにはきっとなくなっていることだろう。
  今夜はクリスマスイブ、ちょっとおどけて点してみるか。

2012年12月22日土曜日

それをエアとは畏れ多い

ネットから
  先日、かつて実母の介護に通い慣れた老人施設でお餅つき大会があった。
  「久しぶり」と言ってくれる入居者もいるし「あんた誰」という人もいる。多数の方は表情が少ないが仕方がない。
  部屋から会場まで順番に皆さんの車椅子を押し、手を洗っていただき、そして、お餅を配ったり善哉を配ったり話しかけたりと行事を盛り上げるだけだったのだが、結構疲れた。

  12月8日のブログでこの日のために「老人施設の『エア餅つきと写真撮影用の杵』を作った」ことを報告したが・・・・・・・。
  ラワン材の柄と発泡スチロールの頭という安直なものである。
  費やした努力は20㍉のドリルの刃を探したことと柄の先に少しカンナをかけたことぐらいだ。
  こんなものでも、一瞬でも手にとって笑ってくれれば好いがと願っていたが、もしかして・・・と思って頭の部分をラップで包んで全体に除菌スプレーをふり掛けて持参した。

  そして、スタッフとボランティアが搗くのを取り囲んで皆に丸めてもらったのだが、・・・この超軽量級杵は大好評で、多くの方々が頭の上まで持ち上げて嬉しそうに写真に収まった。
  そのうちに、手を伸ばして臼を搗きたそうな動作の方が現れ、それならと何人かに出てもらうと、ほんとうにお餅の上を搗き出した。音は文字どおりペッタンペッタン。見た目は全く本格的だった。
  かつてないことで、入居者がほんとうにお餅を搗いたのだ。会場は大興奮。
  この杵は、今年1年の私の工作の中で一番安易な作品だったが、一番人に喜んでもらえた作品だった。
  こうなったら、「老人施設や保育園用の杵の製作賜ります」・・と看板を上げようかと、ちょっとだけ天狗になっている。

2012年12月21日金曜日

一陽来復にササゲご飯

  冬至である。
  雨の中、関電本店前で原発ゼロをアピールして帰ってきてから柚子湯に入った。
  南瓜を食べた。
  そして、赤い色で邪気を祓うという小豆粥をグレードアップした?ササゲご飯を食べた。
  ササゲは自家製無農薬野菜である。えへん。
  昔、武士は小豆は腹が割れるから小豆の赤ご飯や赤飯は食べなかったらしい。と、本に書いてあった。(切腹の連想を嫌ったのだと)
  だから、小豆の代わりにササゲを使用したという。
  といういきさつは我が家のササゲとは何の関係もない。
  作りやすく、青い莢の段階でも食べられるし、このように豆としても利用できるから毎年植えている。

  数日前から相当な腰痛に悩まされている。
  腰をかばってあまり動かないものだから、喉を含め内臓系全般も不調を覚える。
  頃は冬至。古人が太陽の衰えを怖れ、いろんな行事食等を編み出して太陽の復活と健康を願った気持ちが実感としてよく解る。
  しかし、テレビは益々のクリスマス寒波を報じている。 ああ。

  風邪に関する私の持論は、「伊達の薄着」と「うたた寝」が風邪の素。
  皆さん くれぐれもご自愛ください。

2012年12月20日木曜日

交名の儀はちょっと期待外れ

左下に私をとっているテレビカメラが無気味である
  お酉様や終い天神、納め荒神のような師走の行事もいろいろあるが、大和の師走の最大の行事は『春日若宮おん祭』である。
  清少納言に言わせれば「祭といえば賀茂の祭(葵祭)」であるが、さらにその原型とも言われている。
  そして八百七十有余年途絶えることなく古式を伝えているという点では最古の祭とも言える。
  今年は、その『お渡り式』の中の『南大門交名(きょうみょう)の儀』を見物した。
  祭礼の主催権をもつ興福寺の南大門跡において興福寺の衆徒に参列側が交名(出席者名簿?)を読み上げるのであるが・・・・・、
  居並ぶ興福寺の衆徒(山法師)がアルバイトのようであり、読み上げに予想したような威厳がなく、ちょっと期待外れであった。
  観客など知ったことでない馬が大小を撒き散らしたりした可笑しさの方が記憶に残った。
  到着を待っているとき、東京から来たというおじさんがいたので、『私は今年は山法師を撮ろうと思ってここにいるが、東京からわざわざ来たのなら一の鳥居の影向の松のところの「松の下式」に行く方が絶対に好いですよ。』とアドバイスしたのだが、これは的確な案内だった。もし、来年初めて行かれる方は、このブログを思い出して欲しい。
  尤も、夜遅くまで徹底して中世の芸能に浸りたいなら御旅所式となる。
  おん祭は、奈良ではあるが平安絵巻である。
  子供達はそんな些か間延びのした「時代劇」よりも屋台のアテモノに夢中だった。あたりまえか・・・・・・

2012年12月18日火曜日

世の中を明るくしたい

道路から撮りました
  未来が暗く感じられる選挙結果だが、それ以前から我が街は年とともに暗くなっていた。
  一時は12月ともなると各家庭のイルミネーションが美しく、それを見物しながらの夜の散歩も楽しかったのだが。
  ところが、だんだんその数が減り、ごく普通の街になりつつある。
  単に子供が大きくなったからというのでなくイルミネーションが減っていっているので、リストラや賃下げの結果でなければよいのだが・・と妻と話し合っている。
  しかし、残念ながら、そういう想像しか思い浮かばない。
  家庭のイルミネーションは、家庭の可処分所得・・・生活の余裕と直結していないだろうか。もちろん、収入を考えずに遊び心を優先する我が家のような例外もあるが。
  そして去年には3.11フクシマ大人災事故が発生し、一段とイルミネーションが減少した。
  しかし、このまま街が暗くなってよいものか。
  今年は、日頃この種の買い物を「無駄遣いだ」と非難する妻が、珍しく「孫のために1種類増やそう」と同意した。
  その増えたイルミネーションが平面的なサンタクロースで、通常は窓の内側から外に向けて吊るしておき、孫がやって来たときは内向きにした。
  当然、孫は非常に喜んで、・・・・「よかったよかった」と爺婆もまた非常に喜んだ。
  だんだん設置と取り外しが邪魔臭くなってきて、手持ちの全てを飾ったわけではないが、まあ4種類ほどあちこちに設置した。
  お向かいも子供は大きいが「飾る派」なので、我が家の一角だけは時代に抗して「未来を」照らしている。
  暗い世の中だけに、これを「節電意識がない」などと怒らないでもらいたい。
  年金が減らされたり、政策的なインフレが実施されると、我が家だって来年は躊躇するかもしれなくなる。
  世の中を明るくする話がどうしても暗くなる。ああ!

2012年12月16日日曜日

国破山河在

  今年は、この国に現存する最古の書物といわれる古事記が編纂され、太安麻呂が元明女帝に献上してから1300年になる。
  この栄誉ある最古の書物は、奈良県(庁)の古事記出版大賞を受賞した別冊太陽『古事記』登載の大塚ひかり氏の記事に言わせれば「セックスとうんこだらけ」の物語(千田稔氏に言わせると「戯曲」)であるが、そういう物語が皇国史観の教科書となって戦時体制が築かれていったのであるから、戦後生まれの者には信じられないが教育の統制というのはそら恐ろしいものである。

  さて同じ年、つまり1300年前の712年は詩聖杜甫が生まれた年であり、今年は杜甫生誕1300年でもあるのである。
  それを新聞で知って私は、彼の文字の国、書物の国とその辺境の島国とのあまりに大きなタイムラグに愕然とするのである。
  そして・・・・・、辺境の国はその文化度において文字の国に追いついたのだろうかと考えた。

  荒っぽい言い方だが、文字のない時代の歴史は考古学が、文字以降の歴史は文献史学が主として担っているが、その歴史時代(文字時代)の初期の文字(木簡)の宝庫が平城宮跡で、今も地下の水脈により「地下の正倉院」といわれるように『保管?』されている。その価値は計り知れない。

  ところが、そもそもの発信元は奈良県知事だと推定されるが形式的には国土交通省が、イベントがしやすいように?と言うことだろうか、秘密裏にここを広範囲に舗装し始めている。
  浸水性がある舗装というのだが、すでに舗装された大極殿前には草1本生えていない。
  砂利がひかれているが私が靴で払ってみるとその下はしっかり舗装されていた。
  京奈和道トンネル工事案もしかりだが平城宮跡の木簡は文字どおり危機に瀕している。
  水が涸れると木簡は朽ちてしまう。
  木簡が眠っているからこその世界遺産なのに・・。
  私は、現代中国の政治体制や民主主義の度合いについては大いに批判的意見を持っているが、それを偉そうに見下しているこの国の為政者たちのかかる文化の軽視には、白頭を掻いて涙が止まらない。
  (杜甫に釣られて結びの文章が大袈裟になって自分自身で笑っている。ほんとうは涙は出ていない。)

2012年12月14日金曜日

はるかなるミャオ族

  先日、町内会の餅つき大会が無事終了した。
  20臼近くの餅つき大会だから、結構盛大なもので、「餅つき大会顧問」としてはホッとしている。
  昨年までは、「貴方搗く人、私食べる人」的な感じがあったので、今年は、実際の作業に参加してもらおうとひっきりなしに大きな声でお誘いし、ちょっとはそのようになったように感じている。
  総じて高齢の男達は暖をとるのを兼ねて「カマド奉行」にたくさん集まり、また昔を懐かしんで餅つきそのものの参加率もよかった。
  奈良公園などを歩いていると婆さんの逞しさだけが否に目立つが、餅つきは貴重な爺さんの活性化策だったんだ。
  また、若いご夫婦などにも私が強引にお誘いし参加してもらって盛り上がったが、しかし、中には綺麗な服を着てお餅を貰うだけの母子も少なくなかった。ああ~!
  でも、昨年よりも子供達が無邪気に参加してきたので、少し冷めすぎ状態まで思いっきり搗かせてあげたり、餅つき途中の白蒸し状態や半殺し状態のものも「ナイショ」と言っていっぱい食べさせた。こういうイレギュラーなことこそ子供達には楽しいものだ。だから、搗きあがった臼にこびりついたお餅も「おいしいぞう」と言って食べさせたら素直に喜んでくれた。うん、これならこの民族の将来も悲観することはない。
ミャオ族の餅つき(ネットから)

  穀物を・・粉にして、丸めて、蒸したり茹でたりする料理法は世界中にある。
  しかし、穀物を・・蒸して、搗いて、丸めるお餅はあまりない。
  我が国の文化の大きな源流である中国の中原や朝鮮半島にも(古くは)ない。
  その故郷らしきところは、中国南方から東南アジアにかけてのミャオ族らしいように私は思う。
  鮨、納豆、魚醤のルートと重なる。
  その伝達の主人公は、漁師か、交易商人か、ボートピープルか、勉強もせずにただ空想するだけで楽しい。
  テレビで見たミャオ族の棚田は文句なく私達に郷愁を感じさせないか。

  その昔、原水禁世界大会に参加したとき、モンゴル、朝鮮、中国、ヴェトナム、スリランカ等々の参加者の顔を見たら、確実にそれぞれその民族らしい特徴があった。
  なのに、同時に思ったことは、そのそれぞれと同じ顔が日本人の中にあるということ、つまり、間違いなく我々はアジアの偉大な混血児だという感想を抱いたことを思い出す。その祖先としてミャオ族もしかりである。(シベリアや中央アジアにも同じ顔の人々が多い。)
  偏狭な人種・民族主義を主張しようとは思わないが(帰化した方やハーフ等の方々を無視しているわけでは決してないが)、そう、間違いなく我々はアジア人なのである。
  これは当たり前のことではあるが、選挙演説を聴いていると、この人は自分をアメリカ人だと信じきっているような党首等が少なくない。
  それはパートナーこそドイツ・イタリアではないが、7~80年前にこの国が誤った大きな勘違い(脱亜入欧)の再現のように思えてならない。
  そのアメリカは今、経済大国であるとともに大貧困大国である。そして大軍事大国であることは言うまでもない。
  そんな中で、日本共産党が「日米安保条約でなく日米友好条約を!」と言っているのはこの国の理性だと私は思っている。

2012年12月12日水曜日

鯨が出てきた

  「奈良の大仏と土佐の鯨はどちらが大きいか? 金(曲)より鯨が2寸長い。」は、曲尺(かねじゃく)・鯨尺が身近になくなった今では、私など一般庶民にはけっこう高度なクイズになる。
  尺貫法の使用が禁止され、メートル法に限るとされたのは昭和34年で、世間ではその前から大々的にキャンペーンが張られていた。
  戦後民主主義の申し子で小学校高学年であった私などは、そのキャンペーンを素直に受け入れ、「尺貫法などに拘っていたのでは社会の近代化ができない。」と信じていた。
  ものごとには歴史があり、建築や呉服にはその社会があって上手く回っていることなど知る由もない子供だった。
  この法律では、尺貫法の物差(ものさし)を作ることはもちろん使用することさえ違法となり、職人の世界ではそれはそれは大事件であった。
  これに怒った永六輔氏がラジオ番組で闘争宣言を発し、尺貫法の物差を販売したり、それを警察に自首するデモを組織し、ついには事実上の「復権」を勝ち取った話は書物等で有名であるが、それらの貴重な意義を理解したのは大人になってからだった。
  そして今回、実母の持ち物の整理をしていて出てきたのがこの竹の物差。
  表向きは「75cm差(さし)」だが反対側に鯨の2尺が刻まれている鯨差。いや文句なしの鯨差。
  家で和服を縫うこともないだろうからもはや我が家では出番は考えられないが、それほど邪魔になるものでもないだろうから、とりあえずはとって置いて、孫が大きくなったら見せてやろう。
  実母は99歳のときにあった地方選挙にもきっちりと投票に行ったような人だったから、これは、今般の選挙に際し、軽薄なブームなどに流されず、90年の歴史に試された物差でしっかりと選択してほしいという願いと理解することにしよう。
  それはさておき、銅鐸の絵の中に「工」字形の道具を持った人がいる。
  これは大型桛(かせ・糸巻き)で、王の身長に相当する「メートル原器」だ・・というのが宮川徏先生の説。
  この話の続きは長くなるので、いずれ日を改めて書いてみたいが、現状に即して言えば、王様やメディアの物差でなく、庶民の物差で理性的な判断を行なうことが大切だと思う。

2012年12月10日月曜日

炭の薫りと母の思い出

  脱原発のために意固地になって節電をしているのではないが、先日から火鉢を楽しんでいる。
  もう何年間も本格的な使用はなく、私の無駄遣いの典型として妻からののしられ続けてきた火鉢であるが、原発と全く無関係でかつエコであるところが気分が好い。
  地球温暖化=CO2の上でも、元々樹木が吸収したCO2が出ただけと言われている。
  我が家がよくバーベキューをするものだから、「屑炭でよかったら」と近所のお茶の先生からいただいた炭なもので、マングローブ炭なんかと全く違って好い薫りもする。
  外泊の義母も、「炭はええなあ」と喜んでくれた。
  私達の親の世代の常識を私達の世代が知らないことも多い(知っている方も少なくない)が・・・
  炭焼きもそうで、母は「炭なんか買うたことがない」という。そして・・・、
      田圃のネキに穴を掘りますねん。
      山からクヌギの木を切ってきてロの字型に組みますねん。
      それをすりぬか(籾殻)で覆って煙突を立てて土を被せますねん。
      火を点けて、後は煙の色を見て消しますねん。
      燃えすぎたり、まだやったり、炭焼きは難しかった。・・・・と述懐した。
  戦前の生駒谷の農村風景だ。
  炭はお客さんのときにだけ使う特別「高級な」ものだった。

  今、薪等を採らないために里山が荒れているのだと聞く。
  そのために猿や猪が里の田畑を荒らすのだとも。
  軟弱な私は、戦前の生活へ戻ろうなどと言う主張をする気はないが、私達はもう少しこの半世紀ほどの間に忘れてきた「忘れ物」を思い出してもいいのではないだろうか。
  それは生活習慣だけでなく・・・、
  ・・・インフレ策だ、規制緩和だ、果ては改憲だ、核武装だ的な発言がまかり通っている。
  戦後民主主義と一歩一歩積み上げられてきた福祉の思想がほんとうに「忘れ物」になろうとしている。
  偏狭なナショナリズムや右翼的思想は、未来が確信できない青年層のやけっぱち思想に支えられているようだ。
  つまるところ、今こそ労働政策の出番だと私は思っている。
  青年に職があり、真面目に働けば明日は少しずつよくなる社会であるべきだ。
  維新の最低賃金制の見直し公約などは言語道断である。

2012年12月8日土曜日

ダンドリ君のパパ(Ⅲ)杵を作る

  12月はお餅つきの季節である。
  昔、親に聞いた話では、戦前の大阪市内では「ちんつき(賃搗き?)」が普通であったらしいが、私が中学生であった昭和30年代の堺の中心街でも同様で、「もち米と賃料」を払うと家の前で道具一式を持参した数人が、そのあたり数軒分のお餅を搗いてくれるのだった。
  ただ『まだ戦後』という時代であったから、例えば1升5合のもち米が1升分のお餅になったのかも知れない。(このあたりのことは正確には知らない。)
  そして、漁師の息子など体力のある同級生はそのアルバイトに雇われて稼いでいて、なんとなく彼らが大人に見えたものだった。
  という「見ていた側」の都会の子であったから、私はお餅つきの経験を持っていなかった。
  それが祖父母世代が農家出身である妻と結婚をして、毎年妻の実家でお餅つきをするようになり、義父が亡くなってからはその道具一式を私達夫婦が預かった。
  そして、知らない間に『お餅つきを知っている貴重な古老』に分類されるようになっていた。

  地域によっては不祝儀でもお餅を搗くらしいが、ごく普通にはお餅つきは目出度い行事である。
  昨年、実母がお世話になっていた老人施設でお餅つきがあったが、「お餅つきは目出度いなあ」と実母は喜んでいたし、みんな楽しそうであった。また、はるか昔のお餅つきの思い出がよみがえったように手を動かしておられる方もいた。
  そして私が持参した子供用の杵を手に持って喜んでもらったが、正直に言って子供用の杵でも重たすぎたし、中には振り回しそうにされる方もいて大変だった。
  ~そして1年が経過した。
  そして先日、「去年は杵を持って来ていただいて写真が撮れてみんな喜んでいたなあ。」という話になり、話の勢いで「それなら今年はもっと軽いのを作りますわ。」とダンドリ君のパパは答えてしまった。
  で、ホームセンター巡りをしていろんな材料を検討したが、結局、ものすごく簡単な発泡スチロールがあったので結果としてはあっけないくらいイージーな作品(エア餅つきと撮影用の杵)になった。
  でも許してもらえるだろう。
  この杵のせいで、一瞬の大笑いと、かすかな記憶が数日残れば嬉しいのだが。

  介護の現場を見ていると「福祉のための消費税」という主張が如何に嘘っぱちかと言うことがよく判る。
  結局、日本共産党が言うように、財源の問題と言うよりは政治姿勢の問題で、税の応能負担等を徹底すれば消費税に頼らない福祉国家が可能だと思えてくる。
  良い介護とはつまるところスタッフの数と心の余裕だと思う。
  いつの間にこの国は「人件費は悪」と言うような品格を欠く国になったのだろう。

  孫がやってきて、この杵で見事なエア餅つきをしてくれた。
  この子が大きくなるまでに、原発のない暖かい福祉国家をつくりたいものだ。

2012年12月6日木曜日

四十雀寄せという農法があった

  シジュウカラというと季節感もない身近な鳥だが、実は結構美しい。
  始終ヤマガラと一緒に我が家にも水浴びにやってきてくれる。

  昔、農林省(当時)の友人に「庭木の毛虫をどうしたらよいか」と尋ねたところ、「毛虫が増えたら栄養満点で鳥が増えて毛虫が減る」と教えてもらったが、鳥が増えて毛虫が減る前に庭木が坊主になった。
  一般論と個別事案の按排は難しい。

  孫引きで恐縮ながら、川口孫治郎著「続飛騨の鳥」 に岐阜県の東美濃や付知地方の「四十雀寄せ」というのがあった。
    冬の初めにシジュウカラのオスを籠に入れて桑畑に連れて行く。
    たっぷりの餌をもらって小春日和に気分がよくなったオスは歌を歌う。
    すると歌に誘われたシジュウカラが集まってきて大合唱団が編成される。
    そして、桑畑の虫たちを片っ端から食べてしまう
・・という実際に効果のあった感動的な害虫駆除法らしい。

  こういう先人の知恵を忘れてしまった(知らなかった)私たち現代人は、いまフクシマに驚愕して反省するばかりである。
  あえて言うが、自然を畏怖しない政治が目指す社会に未来はない。
  私は本気で脱原発を実現したいので、いま本気で日本共産党に伸びてもらいたいと思っている。
  フクシマの危険性を具体的に追求してきたのは、古くは不破哲三、その後は吉井英勝前議員しかいなかった。引退が惜しまれるがその後輩達に期待しよう。

2012年12月4日火曜日

山椒は小粒でも さるぼ貝

  選挙報道が喧しい。実はあまり喜ばしいことではないのだが、テレビ等マスコミへの露出度が投票行動に大きな影響力を持っていることは事実である。
  そして、そのテレビ等マスコミが極めてアンフェアな態度をとっていることは識者によって種々指摘されている。
  だから逆説的に言えば、意図的にマスコミが排除しようとしている部分にこそ真実があるのではないだろうか。

  さて、「今日の赤貝のにぎりは安かった」と喜んでいたら実はサルボ貝(猿頬貝・さるぼう貝)だったということが多いらしい。
  と言って、サルボ貝がまがい物だということではなく、まあ小型の赤貝だと思っていただければいい。
  つまり、真の実力はあるがその名前は不当に排除されている。・・・ということで、何となく助けてやりたくなる貝なのだ。

  このサルボ貝、堺泉北コンビナートの埋立が始まる以前は、そのあたりの大阪湾の特産物の一つだった。(と言って、ほとんどの方は赤貝だと思っていただろうが・・)
  以前のブログで「堺でも紀州訛りの影響でサブロウ貝と呼んでいた」と書いたところ、同窓生から「家の前の道路上で身を剥いていた家がたくさんあった」とコメントをいただいた。
  ・・という、ただの貝ではあるが、個人的には昔懐かしい堺は大浜の思い出の貝である。

  それが、近鉄百貨店で売られていた。(残念ながら大阪湾産ではない。)
  写真の量で500円余という安さだし、もちろん早速購入した。
  先ずお刺身に取り掛かったが、ちょっと赤貝の代打というには小さすぎた。それでも夫婦二人の食卓を十分に賑わしてくれた。
  後の大多数は、酒と醤油とみりんでサッと蒸し煮にした。豪華なおかずで満足だった。
  缶詰の赤貝は実はサルボ貝だと言われている位だから味には文句がない。

  繰返すが、味は一流なのに不当に低く評価されている。
  サルボ貝よ泣くんじゃない。赤貝と詐称したりまがい物扱いしているのは人間の勝手である。
  そういう人間は今、明日の保証のない公約とやらを振りかざす「まがい物」にまたもや騙されてしまうのだろうか。
  私は北極星(ひとつ星)のようにぶれない政党を信じたいが。

2012年12月1日土曜日

白鶺鴒

  ハクセキレイは身近にいるがチョコマカ チョコマカしていて、いざと言うと写真に撮りにくい。
  それに模様も結構いろいろあり、個体によっては少しばかり薄汚く見えたりするのだが、この写真はハクセキレイらしいハクセキレイで我ながらチョット気に入っている。
  セキレイというと背中が真っ黒でそれとのコントラストで胸と腹がまっ白に輝いて見えるセグロセキレイの方が印象深く、ハクセキレイは相対的に地味な感じがするが、どうしてどうして、よく見ると気品がある。

  東京など関東では1980年代頃から都市中心街で大きな塒(ねぐら)をつくっているというのだが、私はハクセキレイの塒を見たことはない。もし、近畿圏でそんなところがあったら教えていただきたい。
  ムクドリの塒はテレビでも再三採り上げられるほど公害として認知されているが、セキレイの塒がそれほど問題にされていないのはどうしてだろう。ムクドリのような悪声でないからだろうか。それとも、「セキレイがいなければ日本民族は存在し得なかった」という日本書紀の記述のせいだろうか。
  そうだとしたら、この国のメディアの病は重症である。

  そんな私の心配性を笑い飛ばさないでほしい。
  松本サリン事件の報道があったとき、私は一時河野さんが犯人だと信じ込んだ。
  イラク戦争のとき、「アメリカもアメリカだが、実際にはフセインも大量破壊兵器を持っているだろうなあ」と思っていた。
  そして、3.11のときに繰返された「直ちに健康に影響ない」という極めて政治的な虚偽報道は記憶に新しい。(実は16万人もの方々が未だに避難生活を強いられているのだ。)
  そして今、明らかに意図的に日本共産党の動向を報じないで右翼勢力間の野合を新しい第三極のように描こうとするキャンペーンが張られている。
  小さい頃、慶応生れの私の祖母は「狐に騙されたことがある」と真顔で語っていたが、私達は現代、もっと恐ろしい魑魅魍魎に騙されているような気がする。

2012年11月29日木曜日

落葉掃き考

  カレンダーの風景写真などを見ると諸外国でも素晴らしい紅葉(こうよう)がたくさんあるが、さて彼の地にも「紅葉狩り」的な風習はあるのだろうか。
  「諸外国には素晴らしい紅葉があまりないとテレビで言っていた」と妻は言うが、カナダ楓、アメリカ楓、アメリカハンノキ、アメリカハナミズキ、ナンキン櫨等々があるのだから「ないことはない」と思う。
  もし「ない」としたら、『枯れ落ちる直前の美』を愛でる感性やそれを許す穏やかな気候(秋)がないのかもしれない。

「紅葉には鹿」が定番でしょう
  と言って、私が紅葉を愛でるようになったのも歳を重ねてからのことであるから、「日本人イコール紅葉狩りをする」的なワンパターンの理解もまた正確ではないだろう。
  同様に「紅葉イコールもみじ」という発想もちょっと薄っぺらな感じがし、諸々の「雑木もみじ」も棄てがたいのではないかと私は思っている。

  「雑木もみじ」の身近なところは街路樹だが、転居前の家の幹線道路の街路樹はプラタナスで、その名が詩的でパリを思わせる情趣があり、私の世代などは「はしだのりひことシューベルツの」と結びついてしんみりするのだが、一転これが落葉となるとどう贔屓目に見ても大量のゴミにしか見えず、幹線道路沿いの方々は毎年この季節にはタメ息をついておられた。
  そして現在の家の裏の遊歩道は中央にケヤキが植えられているのだが、この大木たちが撒き散らす大量の落葉もなんともナカナカに微妙である。
  私は溜まった落葉をザクザクと音を立てて歩いたりして楽しみたいが、ご近所の方が挨拶の際「かないませんなあ」と嘆くのも判らなくもなく、「ええ」とかなんとか当たり障りのない返事をして落葉掃きを行なっている。
  私は、どちらかというとレレレおじさんのように竹箒で落葉掃きをするのは好きであり、公道の落葉掃きが不満というようなケチなことではなく、もっといっぱい落葉を楽しんでから掃きたいと心の中で思っているのである。
  先日、老人施設の家族会として施設の庭や幹線道路の落葉掃きもしたが、ここでも内心ではもうちょっと落葉を楽しめないかなあと思ったりしたのだが、それはあまりに少数意見なので冗談めかして吐露するに止めてきた。(ただし、ここの落ち葉の量は半端じゃない。)
  このように、住宅地と言われる街で落葉を楽しむという発想はかくも論外とされているようだが、そうだろうか。きっとそうなんだろう。
  近頃の子供が『焚き火』の歌でどんなイメージを抱いているのかは、全く想像も及ばない。
  さて、家の近所の幹線道路の街路樹は銀杏(いちょう)並木で、銀杏の黄葉と落葉の季節はこの道路が周辺よりも格段に明るく輝く。これは大袈裟ではなくほんとうにそうである。
  で、歩道橋の上からそれを見ると、決まりごとのように『公園の手品師』を口ずさみたくなってくる。
  フランク永井が歌った『公園の手品師』は名曲だと私は思う。
  「歌は世につれ」と言われるが、近頃はこんな名曲が出てこないということについては妻も同感だと言っている。
  それは、時代が殺伐としてきたためだろうか、それとも現代の名曲にヒットしなくなったほど私の感受性が衰えたためなのだろうか。

  だが、そんな風に達観を装ってもいられそうもない。
  自民党や維新の公約を新聞で読む限り、憲法や民主主義を巡って歴史が大きく逆流する危険が高まっているように私は感じる。
  感覚を研ぎ澄まして、それらに待ったをかける理性的な世論が広がるよう、日本共産党の前進に期待したい。
  「愛情の反対は無関心だ」とは元宇宙飛行士で今フクシマ難民の秋山さんの言葉である。
  ある種の怒りもまたこの時代の大事な感受性であろう。

2012年11月26日月曜日

秋グミは大人の味

  妻がポケットからグミの実をたくさん取り出した。
  家からすぐ近くの、毎日のように歩いているいつもの道で採ったのだという。
  ということは、私も毎日眺めていたはずで、何を「ちょっと秋を撮りにいってくる」だ・・・と、己が観察眼の曇り具合を大いに大いに反省している。

  これは秋グミで、夏グミや、もちろんビックリグミと比べると相当小さくて丸い。
  植え込みの中に生えているのだが、どう見ても人が植えたというよりは野鳥が運んできて自生したものと思われる。(もしかしたら植栽されたものかもしれない。)
  昔、庭にビックリグミを植えたことがあったが原因不明で枯れてしまった。
  その一方でこのように自生し大きくなって実をつけているのだから、自然界は偉大である。
  去年の秋は楝(おうち・せんだん)の有毒の実を食べて失敗したが、これならそういう心配はない。
  タンニンの渋みが後に残るが、渋みは大人の味である。
  そう、甘いだけの果物は面白くない。こういう酸味や渋味という雑味を好まないお方とは友達になれない気がする。

  さて、「大人の味」とは言ってみたが、やってきた孫の夏ちゃんは秋グミが気に入ったらしく、茎だけ器用にむしり取ってパクパクと口に放り込んだ。なかなか渋い趣味である。
  アッアッと言って私が口の中から取り出そうとする前に・・・、実の中の小さな種は出さずにすべて食べてしまった。
  まあ考えてみるとトマトも種を出したりしないから、「これもありか!」とその後は全部見過ごすことにした。
  秋グミはなかなかに楽しく味わい深い草木である。

  余談ながら、私より少し上の世代が歌声喫茶全盛の世代になる。
  そして、ダークダックスなどによって私達の世代も何となくそれを知っている。
  その中に「ウラルのグミの木」という歌もあったが、原詞はナナカマドだったらしい。
  こんな訳(やく)ってあり? と、いつか新進気鋭のロシア文学翻訳者に尋ねてみたいと思っている。

2012年11月23日金曜日

ダンドリ君のパパ (Ⅱ)

  私は現役時代、業務をマニュアル化するのに努力してきた。
  それは、頻繁に行なわれる人事異動でどんなアクシデントがあっても、最低限の業務の水準を維持し次に継承したいという気持ちからだった。だから、私はマニュアル全般について否定しているものではない。
  だがしかし、一旦マニュアル化されてしまうと、制度の主旨や精神を考えることを止め、改善の意欲が停止してしまうかのようなこともあり悩ましかった。
  そして現役を卒業し、間髪を入れず老朗介護に突入したのだが・・・・・・・、
      (以下の問題意識は過去のブログと重複する)

  先日、音楽療法の勉強会を行なった。
  近頃の講演はほとんどがパワーポイントを使ったプロジェクターとスクリーンで行なうものだから、レジュメもなく、正確な理解が記録できない・・・・と、機械のせいにして己の不真面目さを責任逃れする。あはは
  つまり、私の非常に不正確な理解であるのだが、それは、音楽はもちろん心理学などを修めた音楽療法学科卒的な音楽療法士による、極めて計画的な非薬物的療法であるらしい。
  確かに、その実践は非常に巧みで参加者全員が心地よく会場を後にした。
  しかし私は思うのである。
  歌といっても千差万別、被治療者も千差万別、いろんなアレンジがあるはずのものを「音楽療法」という定義が幅を狭めていることは実際にないのかと。
  現に、これまで幾らかの音楽療法を見てきたが、その歌は圧倒的に唱歌のようなものだった。
  高齢者の想い出の歌はほんとうに唱歌なのか。わらべ歌なのか。
  現在80歳の方が38歳の時は1970年(昭和45年)。「知床旅情」も「女ひとり」も私の訪れていた部屋の皆さんは大好きだった。唱歌よりも恋の歌の方が顔が輝いた。
  かくして、「音楽療法」と“構えたもの”に、私は若干違和感を覚えるのである。

  高齢者介護の中には「回想(療)法」というものがある。
  これも基本的には私は門外漢である。
  だから六車由実氏が「驚きの介護民俗学」で批判的に書かれている部分を孫引きすると・・・、
  1クール8回の場合、1回目「ふるさと」、2回目以降「昔の遊び」「学校」「結婚」「子育て」「仕事」「お正月」「今、やりたいこと」というテーマに沿って、メモをとらずに計画どおりに傾聴していくものらしい。
  だから、私が実母や義母とやってきたものは全くの別物なのだろうが、私は「あんなん教えて、こんなん教えて」とメモをとり、少し面白かった話はブログに書いて、「おばあちゃんの話を全世界の人が見やはるねんで」と見せてきた。
  あるときは、実母がそれを見てワーっと泣き出したのでスタッフの皆さんが驚いて駆け寄ってきたことがあったが、それは感動のうれし泣きだった。
  私流の回想法で介護してきた・・などとおこがましく言うつもりは毛頭ないが、マニュアルの外にも素晴らしい介護があるのではないかと思ったりするのである。

  と、ダンドリ君のパパは偉そうに悩んでいる。

2012年11月21日水曜日

ダンドリ君のパパ (Ⅰ)

  息子は「ダンドリ君」という漫画を揃えて持っている。
  そんな本を持っているぐらいであるから、息子も結構ダンドリ君のようだ。
  娘も同窓会などの準備を見るともなく見ていると、結構いろんな趣向を準備している。
  妻は「二人ともお父さんの背中を見て育ったんや」と言う。
  例えば、同じ行事をするなら、つい、ありきたりのものでなく楽しんで喜んでもらえるものを!と考えてしまうのは大阪商人の血なのかもしれない。
  だから反対に、一参加者としてダンドリの悪い行事やズボラな企画を目の当たりにすると、少しイラついてしまうのがよくない・・これは良くないことだとは重々承知している。

  ところで、巷間では、ダンドリ君とマニュアル人間が混同されている向きもあるが、臨機応変に判断できないダンドリ君は失格であるし、誤差や「遊び」を読み込まないダンドリは失敗する。ダンドリ君はマニュアル人間ではできないものである。

  さて、寒気の天気予報とともに自治会の餅つき大会の準備が始まったが、私はその「大会顧問?」に招聘されている。
 そこでのやりとりは・・・・・、
    〇「もち米2升は2.8kgとあるが、去年の実績と計算が合わないが?」
    私「多すぎたら臼からはみ出るし少なすぎたら搗きにくい。ただそれだけだ。2升でよいのだ。」
    〇「蒸し時間用のタイマーは購入すべきか?」
    私「美味しい匂いがしてきたらチョット摘まんで食べたら解る。日本人なら必ず解る。」
    〇「薪コンロに着火材が必要では?」
    私「頭と斧を使えばすぐに点く。」
    〇「大根おろしのためにフードプロセッサーが要る?」
    私「おろし器を持ち寄って子供たちに卸させよう。」
    〇「綺麗な舗装で傾斜した土地に薪コンロをどう据える?」
    私「レンガの数でレベルをとり鉄板を置いてマサ土を乗せて微調整をする。そんなことはどんな本にも書いていない。私が考えただけ。」
    〇「危険だから子供達をどう離れさせようか?」
    私「危険と隣り合わせの大人の行事の中で子供達は成長するのだ。(そして大人も)」
・・・・・・と、言ったところで、これが私のダンドリの程度である。
  誤解しないでほしいが、他の役員がマニュアル人間だなんて言っているのではない。
  それだけ「餅つき」が一般市民には遠い存在になっただけのこと。
  でも、この国の未来を少し心配している。

2012年11月19日月曜日

猿石は嗤っている

明日香村
  私の散歩先である「石のカラト古墳(奈良市と木津川市の府県境にある)」と、明日香のキトラ古墳、マルコ山古墳、高松塚古墳の横口式石槨が極めて似ていることから、その各古墳の出土品や史料と照らし合わせて高松塚古墳の被葬者を特定しようとする研究がある。
  その内容を書き始めると一冊の本になるので書かないが、私などはA先生の講義を聴くとナルホドと思い、B先生の説を読むとナルホドと思ってしまう。
  著名な学者の見解だけでも、天武天皇、蚊屋皇子、百済王善光、高市皇子、弓削皇子、忍壁皇子、紀麻呂、葛野王、石上麻呂・・・と言ったところである。
  そんな折、明日香村、保存財団、関西大学、朝日新聞社の主催による「高松塚古墳壁画発見40周年記念講演会」が明日香村で開催されたので、40年の研究の成果が聞けるぞと、非常な興味を持って参加した。
  内容は朝日新聞25日朝刊に掲載されるはずであるが、今回の私の関心事であった被葬者の部分だけを言うと、猪熊兼勝大先生が記念講演で「忍壁(刑部)皇子」と発言されたため、二部のパネラーの田辺征夫、米田文孝、森岡秀人各先生が、先の4古墳の石槨の変化や土器や史料を挙げて異説もあるというようなないようなムニャムニャムニャという言い方だったので大いに失望した。がっかり・・・・。
  これでは学問というよりも、古くは親分子分、新しくは物言わぬヒラメ社員ではなかろうか。
  40年というと、当時20歳で網干善教先生の手伝いをしていた森岡秀人大学生がその後就職をしてすでに定年退職したという長さである。
  問題は見解の適否ではなく、大先生であろうが誰であろうが「私はこう考える」と言わない現役先生方の姿勢である。
  だけど・・・胸に手を当てて考えてみると、何事によらず堂々と理性的な議論を行なうことを避ける内向き傾向は、私を含め現代日本の世間一般に蔓延しているように見える。
  そして、そんなうちに東西の品のない「(元)首長」等の弱肉強食の声高な主張だけがマスコミによって拡散していっている。これでいいのだろうか。
  あの明日香の猿石は、そんな現代人を嗤っているのではないだろうか。

2012年11月17日土曜日

まっちゃまちの買い物

  まっちゃまち(松屋町)は大阪の人形と玩具の問屋街で、「ぶらり散歩」が楽しい街である。
  どちらかと言うと、夜店(屋台)の景品用の安物の玩具をウィンドウショッピングするのが懐かしくて楽しい。
  紙風船と吹き戻しセットなら10円か20円。
  そんな中に野菜を包丁で二つに切ることのできる「ままごとセット」のようなものがあったので買ってみた。税込み200円。
  帰ってから孫にもできるだろうかと思ってテストをしてみると、野菜の切れ目がマジックテープのようになっていて、それが結構強力なものだから「これはチョット失敗した」と後悔した。
  しかし、やって来た夏ちゃんは天才で、教えもしないうちから野菜を包丁で力いっぱい切り始めた。包丁は横に倒れていたが、少なくとも「爺ばか」にはそう見えた。
  どうしてこれが包丁で、そして切るものだと判ったのだろう。
  「まなぶ」とは「真似ぶ」からきた・・・というのが語源学的に正しいかどうかは知らないが、教育学的にはよく使われる例え話である。
  大人の真似をするというのが楽しくて、それが知恵の始まりであるというのは納得できる。
  夏ちゃんは食事の時に何回も「・ぱ~い」と言って乾杯を繰り返し、お茶を飲んでは「ぷはぁ~」と言って「爺ばか」の真似をしてくれる。「真似んでいる」のだ。
  そう・・・チョット洒落た言葉を選んだ乾杯の音頭って結構難しいものなのだ・・・。
  だから、そういう夏ちゃんの乾杯を見ながら、「この子はきっと好い社会人になって洒落た乾杯の音頭をとるに違いない」と夢見てニンマリしている。

2012年11月14日水曜日

木雲雀

  ビンズイは『タヒバリそっくりさん』のため、木の枝に留まることもある習性からタヒバリに対して木雲雀(キヒバリ)とも言われている。
  識別は目の後ろの白い斑と、Olive backed Pipit(背中がオリーブ色のセキレイ)という英名のとおりのオリーブ色だから写真はビンズイに100%間違いない。
  和名の由来は「ビンビンズイズイと鳴くから」と本にあった。「ほんまでっか」と言いたいがそれ以上に説得力のある説にお目にかかっていない。
  ビンズイは夏は高地にいて冬には平地に降りてくる。
  こういう鳥の場合季語はどうなるのかと思ったら、歳時記では『夏』に載っていた。
  私の感覚では『冬』なのだが、粋な俳人は避暑地の夏にビンズイを一句読んだのだろうか。
  「それはチョット庶民感覚とズレてまっせ」と感じたが、土地によってそれぞれだから、全くの誤解かもしれない。
  まあ、私(わたし)的には「秋の使者到来」と思っている。
  こんな秋も見つけました。

2012年11月10日土曜日

こんな秋も見つけました

  ならまちでビハーラ僧の講演とシンポジュウムがあったついでに秋を探しに奈良公園を散策した。
  すると、春日奥山への入口でシロハラが集団で食事をしているのに出くわした。
  今冬初の出会いだと思ってシャッターを押したが、帰ってからよく見ると胸が赤いので驚いた。きっとアカハラだと思う。(背中の感じや大きさからマミチャジナイではなさそうだ。もし間違っていたら指摘してください。)
  私としてはシロハラよりも出会う機会の少ないアカハラだったので「得をした」気分になった。
  そのすぐ先でクサギの花(??正確には実)が満開で、モミジの紅葉と競っていた。(花は夏に白い花らしい花が堂々と咲くのだが、この実の美しさはどうだろう!)
  この木、「臭木」などと言われるものだから 不当に低い評価をされているように思われるが、星型のガクの先っちょに貴石にも似た藍色の実がとても美しい。
ちなみにクサギの花(ネットから)
  もっともっと晩秋の風情として讃えられてもいいのにと、彼女の薄幸に同情する。

  ムクロジの老大木の前の、・・・土産物屋というほどのこともない小さな小さな店の夫婦が人懐かしげに出てこられたので、「ここに昔はアオバズクがいましたね」と話しかけると、その昔は白いフクロウなどいろんなミミズクが来たと言う。
  「それはそれは可愛い声やった」と目を細められた。
  私の経験からも、アオバズク、アカショウビン、サンコウチョウ、オオルリ等々は近年奈良公園でほとんど見なくなった。これは奈良公園の方ではなく渡り先の東南アジア等の乱開発のせいだろうが、そこにはきっと日本人と日系企業が介在しているのだろうなあと想像すると胸が痛む。
  「ムササビもいるのでしょ」と聞くと、「毎晩眠ろうかなという時間になると天井裏を走り回りますねん」とのこと。
  聞いている私は大いに微笑ましく笑ったが、当事者はどうだろう?(まあ、それほど深刻そうでもなかったのでホッとした。)
  家の前の道路上のムクロジの老大木も近々伐採され道が広げられるらしい。
  まったく幹線でもないこんな道を広げる必要もないのにと思ったが、「そろそろ何時倒れてくるかも判らない」という夫婦の心配も判らなくはない。
  しかし、「若草山にケーブルカーまがいの施設を造りたい」という、まったく古都に似つかわしくない非文化的な知事のことだから、そこへのアプローチの道路拡幅なのかも知れない。そんなことを考えると背筋が寒くなるがそれは立冬のせいかもしれない。

2012年11月6日火曜日

蛙は止揚する

  ゲーム時代の若者は、現実問題にチョット躓くと、青春や人生(というほどの年月でもないが)をリセットしたいと願望するらしい。(その辛さが解らないわけでもない。)
  しかし、それが「その後に身に着けたノウハウでもう少し上手い生き方をしたい」ということだとしたら少し寂しい。
  若者達には、リセットではなく「無駄」な失敗を重ねて「螺旋状の発展」をしてほしい。
  ということを「縄文の世界像」の展示を見ながら考えた。

  さて、縄文土器には蛙の絵がしばしば登場する。
  それは何故かという解釈には百家争鳴の感がある。ほんとうに百家争鳴だ。
  私は、・・・卵からオタマジャクシになって蛙になって土の上に上がってくる。・・・縄文人は、そこに、ある種のアウフヘーベンを感得したのだと思っている。
  これは、博物館の縄文土器のエネルギッシュな文様に圧倒されながら見学する中で、学術的・論理的ではなく、感覚的に感じとった我が珍説である。
  古代人も、変身願望があったんや。己がレベルアップを目指していたんや・・と。
  とすると、アスナロがスギになるよりも、オタマジャクシがカエルになるのは目前の驚異的出来事で、そこに、及びもつかない、信じられない力を感じ畏怖したのだと思う。
  それをカミだとかアニミズムだとか精霊だとかに分類したがるのは後世の人間で、古代人は素直にそんな蛙にアヤカリタイと念じたような気がする。
  それぐらいの感動がなければ、あんなエネルギッシュな(カエルの)文様は誕生するはずがない。
  縄文の展示には、弥生にない“わくわく感”があり、岡本太郎が乗り移ってきたような昂揚を感じる。
  こういう感情は、本やテレビからは湧いてこない。

2012年11月3日土曜日

グレイトグランマ コレクション

  再生可能エネルギーが脚光を浴びているが、『再生可能衣服』の王様なら毛糸だろう。
  その上に、今冬などは節電、省エネということで、『ワコール男性用毛糸パンツ「ふわふわ」』が注目されているらしい。
  テレビの初期のCMに「カンカン鐘紡 カンカン鐘紡 赤ちゃんの時から鐘紡毛糸」というのがあって耳に残っているが、半世紀を経た今も、このように堂々と毛糸が闊歩しているのには脱帽する。

  義母は一時期などはほとんど寝たきりだったが、老人保健施設に入所してから確実に改善されている。
  それは、施設のリハビリもあるが、少し心に余裕のできた妻や私などが、昔の縄ない等の農作業のことを聞いたり、あやとりを教えてもらったりという、いわば「試行錯誤の家族介護」もプラスに働いた結果だと思っている。
  そして今回、「曾孫にマフラーを編んでくれたら嬉しいけど・・」と言ってみたところ、「そうか」と言って動き始めた手は自動運転のように進んでいった。
  「雀百まで」というか、こういう能力は全体的な要介護度とはまったく別の箇所で不滅らしい。
  で、これまで妻と私が編んで貰った作品の一部を上の方にアップした次第。

   ブログの下書きを見せて、 「お祖母ちゃんの作品を世界中の人が見るねんで」と言ったら、「そら、えらいこっちゃな」と嬉しそうにまた少し元気になった。そして、すぐに「疲れた」と言って寝転んでしまった。写真は一瞬の元気を捉えたもの。