2012年12月28日金曜日

古墳を造る

右の方に伸びる前方部は18㎜広角レンズにも収まらなかった
  奈良県の北端近く、平城宮跡北側の佐紀盾列(たてなみ)古墳群の中に『コナベ古墳』(陵墓参考地)がある。
  過日、この古墳の1/2の古墳を運動場に地割する作業が奈良市立一条高校を会場に行なわれた。
  同趣旨の実験は1981年に堺市立西百舌鳥小学校で経験済らしいが、巨大古墳発祥の地ここ大和では初めてのことらしい。
  このプロジェクトのリーダーの宮川徏先生の説では、いわゆる前方後円墳には明確な設計思想があり、後円に対してどういう比率の前方部が造られるかで大王墓であるか否か、あるいは王統の系列が解るとのこと。
  特に墳丘長をひとからげに大きさの基準にして論じている多数の学説に対して「それは違う」と主張されている。(こういう論争を外野から眺めているのはとても楽しい。)
  私は、宮川説の全てについて理解し納得しているものではないが、何はともあれ貴重な実験であるので参加した。
  棒と糸と勾股玄(こうこげん、3・4・5のピタゴラスの定理)だけで書いたのだが、コナベ古墳の1/2でも運動場いっぱいに広がった。
  これが、一人の人間の墓である。(正確には多くの古墳は複数者が葬られているが。)
  その巨大さを改めて実感する。
  神仙世界への成仏を求めたのか、「よみがえるな」と祟られることを怖れたのか、盛大な首長権の移行儀式の会場だったのか、王権の力の誇示か、主従関係のシンボルか、・・・・それらがどの様に変化していったのか。 謎解きに終わりはなさそうだ。
  なお、少なくない前方後円墳は横から眺められることを前提に築造されているらしい。それは、小さい頃私自身が眺めながら育った伝仁徳天皇陵を見ても納得できる。あれは大浜側から見上げさせて、西日本の首長や大陸からの使者達に「まいったか!」と恐れおののかせていたに違いない。
  実際の継体天皇陵といわれる今城塚古墳も、横の堤上に素晴らしい形象埴輪によるジオラマが荘厳に飾られている。
  だとすると、「前方後円墳」という名称も、もちろん宮内庁が前方部に造った鳥居も大いに不適切だと言わなければならない。
  世の常識とは、とかくこのようなものである。
  権威や常識から自由になる。・・・・・・・・これ、実際には結構難しい。

閑話休題
  古の「しきたり」に思いを馳せたついでに・・・・我が家では質素なお正月しか準備していないが、それでも、若干の「しきたり」めいたこともする。
  そんな私を、妻と子供たちは、「外を向いて言うてること(一切の旧弊に捉われるな等)と内で言うてることが違うなあ」と笑い飛ばしている。
 ・・・・・で、祝箸 にはそれぞれの名を書いたが、私は悪筆なのでシール印刷させてもらった。「ナニ、印刷など言語道断だ」と指弾しないで貰いたい。このあたりが私(わたくし)的思考である。
  取り箸は「海山」とか「組重」と書く家庭もあるようだが我が家は「山海珍味」と書く。読者の皆さんはどう書かれます? 楽しい大晦日からお正月の貴家の「しきたり」などあればコメン トお願いします。

5 件のコメント:

  1. 祝い箸には筆で名前を書いていますがお取り箸に書くとは
    知りませんでした
    来年は書いてみようかしら なんて書こうかな
    参考になりました どうぞ良いお年を!

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  2.  「もちろん筆です」と言われると恥ずかしい。
     この時期、新聞の投書欄に「年賀状は手書きで」というのが必ず載りますが、小さくなって読んでいます。

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  3. 河内・八尾では「海山」で、あくまで「とり箸」専用でした。お客さん用には、多分来られるだろうという予測のもと、その方のお名前を書いて準備していました。その数が増えていくのをワクワクして見ていました。何故?勿論お年玉の数が増えるからです。そのお年玉もこれまで、甥っこ、姪っ子、そして彼らも成人し、親になり、その子達もいつしか働き出して、今や片手に余るほどになり、これはこれで寂しいものです。

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  4.  甥姪はいいから「娘」と「孫」の名を書けるようにと祈っているのでしょう。

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  5. 随分いろいろな季節のもようしや習慣・食べ物日々の暮らしぶりを紹介していただいて、こんな行事もあったのかとか懐かしいなとか思いながら読ませていただきました。ありがとうございました。来年もよろしく。よいお年を!

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