大嘗祭の折には大嘗宮という仮設の殿舎が建てられるが、北に廻立殿、その南の東に悠紀殿、西に主基殿を設け、それぞれ内部を南北に分け、奥の三間を室とし南側の二間を堂とする。
室には八重畳の座が設けられてその下に坂枕(さかまくら)がおかれ神の食薦(けご)なども配される。
堂には関白座・役送采女座などが作られる。これらの形態については時代によって変遷がみられる。ここで極めて重要な天皇即位の秘儀が行われる。
天皇は廻立殿で沐浴したのち悠紀殿(主基殿)で歌舞や神饌親供の儀に臨むのだが、天皇霊を身に着けるかのような行事については全く分かっていない。
講師は、前天皇の衣を身に着けることによって前天皇の天皇霊を受け取ったのであろうと講義されたが、そうであろうかというのがこの記事の肝である。
折口信夫(おりくちしのぶ)は昭和3年、昭和天皇の大嘗祭の準備進行中に『大嘗祭の本義』という論文を書いている。短くはなく難解な文章だが、以下のような論が折々に開陳されている。
天子様は始終廻立殿で御湯をお使いなされる。湯は斎(ゆ)に通ずる音で御禊の信仰から見ねばならぬ。
禊と深い関係を持っている天の羽衣伝説では、羽衣を奪われた娘は後には伊勢の外宮の豊受大神なられ、その縁故で(天子様の)禊に奉仕する処女が后(きさき)となられる習慣があった。
この物忌みの褌を締めている間は極端な禁欲生活をせねばならぬ。禁欲生活解放の時には性の解放がある。褌の紐を解く、天子様の場合は、この湯の中の行事のいっさいをつとめるのが処女である。天の羽衣をお脱がせ申し上げるのが処女のしごとなのである。羽衣をおとりのけなさると、初めて神格が生ずるのである。
講師は、このあたりの意味から、前天皇の衣を着けて脱いで天皇霊の継承をされたのだろうと述べられたのだろう。
しかしここで湧く疑問は、天武天皇は壬申の乱で大友皇子を打ち破ったのであるから大友皇子の衣ではありえないから天智天皇の衣だろうかという疑問である。
とするなら、いやいや最も権威のある天皇霊は天照大神であるから天照大神からそれを受けようと考えるのが最も素直な考えではないだろうか。
先に述べた「室」には枕と布団があり、ならば天照大神が憑依した伊勢?の巫女が采女となって奉仕し、新天皇はその天照大神と同衾することで力強く復活した天皇霊をその身に着けたと考えるのが無理のない考えではないだろうか。
古代の思考を現代の「常識」で検討するのは正しくないし、明治、大正、昭和の天皇が古代のままに秘儀を執り行ったかどうかはわからない。
ただ、昭和天皇の大嘗祭の直前の論文であるから、宮中からの相談や情報と何らかの接触があってこの論文に至ったのではないだろうか。
だからこの記事は、「大嘗祭考」ではなくて、折口信夫の「大嘗祭の本義」の「考」である。
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