当日の講義のメーンは奈良時代の下級官人のことであったが、少し話は横道にそれて、造東大寺司(ぞうとうだいじし)という役所で働いていた正六位葛井連根道(ふじゐのむらじねみち)が隠岐に島流しにされたのはなぜだと考えるかという問いかけだった。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」天平宝字7年(763年)12月29日条にはこうある。
「・・・三人、酒を飲みて言語(かたら)ふこと時(とき)の忌諱(きき)に渉(わた)れるに坐(つみ)せられて、・・・流さる」と。
史料はこれだけである。
で、帰ってから遠山美都男著『天平の三姉妹』(中公新書)を読み返したが、これに触れた文章はなかった。
ただ時代は激動の時代だった。
天皇は淳仁。後押しのあった、聖武天皇の皇后であった光明皇太后が天平宝字4年(760年)に亡くなり、孝謙太政天皇VS恵美押勝(藤原仲麻呂)(光明派)の対立から恵美押勝の乱(天平宝字8年)が起こる1年前であった。
では葛井連根道らは押勝の乱に向かう相談をしていたのか。それだと罪が軽すぎる。
もう一つの大事件、天平宝字5年(761年)孝謙太政天皇は近江保良宮で重病となり、宮廷内道場の看病禅師「道鏡」が病を癒す。
あけて天平宝字6年(762年)、淳仁天皇が「身分の卑しい者が仇に対して言うような言葉」で孝謙太政天皇を批判し、反発した孝謙太政天皇は淳仁天皇の廃位を決意した。
そういう時代背景の天平宝字7年(763年)の年末に、根道らは「忘年会」をして、「忌諱に渉る話をした」のである。
話の内容は一切書かれていないが、「忌諱」とは一般に「目上の人が嫌がることを言って機嫌を損ねること」であり、時代は下るが江戸幕府や明治政府が「忌諱」を問題にしたのは浮世絵や好色本、つまり風俗の取り締まり、猥褻罪のことだった。
となると、忘年会の酒席での猥談、道鏡と孝徳太政天皇に関わる噂話をしたのだろう。そしてそれは、世間にあふれている噂話でもあった。
世間にあふれている噂話であるからこそ孝徳太政天皇は許せなかったので、世間の「言論」を封じるために「見せしめ」として大きな処分をなしたに相違ない。
後日談だが、称徳天皇(孝謙天皇が重祚)が亡くなったのち、宝亀10年(779年)、根道は従五位下に復職している。
こういう古代史から、学術会議任命拒否問題を見ると、任命拒否の5名が問題なのではなく、学術界全体に向けて「政府の嫌がることを言えばこうなるぞ」と見せしめにしたことが良く分かる。
ああ、何と言うことだ、この国は。1300年前の歴史の教訓を学べていない。
小笠原先生の講義は、「忌諱に渉る話」の内容を俗にあれこれ推測するのでなく、孝謙太政天皇側が大きな世論の批判を抑え込むために、法外な重罪を被せて見せしめとした、そのことを歴史の教訓として学ぶべきだというスタンスであった。勉強になった。
0 件のコメント:
コメントを投稿