プレゼントの一つが、写真の靴下ならぬ「仏下(ぶつした)」で、どう見てもこれを履くと邪鬼を踏んづけることになる。
邪鬼はプリントではなく編み込みだからそんなに安物ではない。
親が親なら?子も子みたいで、よくもまあこんなものを見つけてきたものだ。
妻は「これぐらいのことをせんとお父さんは喜ばんと思ってのことやろう」と感心したが同感だ。大いに喜んでいる。(子も子である)
理屈的には仏像(主に天像)が邪鬼を踏んづける思想(教義)は好きではないが、地獄極楽ではないが判り易さを発揮した「方便」なのだろうと理解している。それは仕方がないことだ。宗教も思想も歴史の制約を受けないものはない。
そのスピリッツを現代に生かすのが正しいのであって、原理主義、教条主義はむしろ有害でさえある。
そんな素朴な感想が信じられなくなった現代では、、邪鬼とは、難民を追い払い、少数者を差別し、個人のプライバシーに踏み込み、他国への先制攻撃さえ準備する勢力ではないか。
そんな邪鬼を毎日踏んづけて歩くのは馬鹿馬鹿しいが愉快愉快。
わが子ながら感心している。
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