大阪湾の古称が何故「茅渟(ちぬ)の海」というかについては、6月9日の「羽衣の松つづき」のコメント欄に古事記の神武東征伝に「兄イツセが血まみれの傷口を大阪湾で洗ったから血沼(ちぬ)の海と言うようになった」という記事があることを書いた。
記録としては日本書紀の「実際の初代天皇といわれている崇神天皇」の条に、三輪山の大物主大神を祀るために、大神の子孫である」オオタタネコを茅渟縣(ちぬのあがた)陶邑(すえむら)に迎えに行ったことが書かれている。
記紀は物語の性格もあるので記述の内容を即史実とは見なせないが、記紀が書かれた、天武―元明―元正の時代に「茅渟の海」「茅渟の縣」と呼ばれていたことは史実であろう。8世紀の初めにはそう呼ばれていた。
古事記神武東征伝にはそのほかに、「珍彦(ちぬひこ)」という神が瀬戸内海を水先案内したとあり、その功により神武から大和国の「国造(くにのみやつこ)」に任ぜられたといい、その神の名をとって「ちぬの海」といわれたのだろうという説もある。
そのほか、万葉集、巻の11にも「珍海(ちぬのうみ」が出てくる。
さらに諸説を見て見ると、「茅」は「チガヤ」、「淳」は「濃い・豊か」でチガヤのよく茂った地というのもあるが、十分に文字(漢字・万葉仮名)が使いこなせていない時代に当てはめるのは無理があるように思う。
黒鯛(くろだい)のことを「ちぬ」というから、よく採れた黒鯛から「黒鯛(ちぬ)の海となったのだろう」という説もあるが、弥生時代の池上・曽根遺跡や四ツ池遺跡から出土した魚の骨では黒鯛は非常に少なく、この説もあまり採用し難い。
茅渟の縣陶邑(ちぬのあがたすえむら)(堺市東部・和泉市・大阪狭山市あたり)に戻ると、この地は最新の工業団地?で、その担い手は渡来人だったと考えられている。そこで私は、朝鮮語やもっともっと古層かもしれないタミル語(大野晋説)のチヌを検索してみたが容易にはヒットしなかった。
かくして私も「ちぬの海」の名前の由来には辿り着けていない。
参考になる事柄など教えていただければ幸いである。
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