昨日のブログ記事のコメント欄に「誰か上岡龍太郎さんのことを書いてくれないかなあ」と書いたが、Facebookにいろいろな投稿があった、そのうちの印象に残ったものを記録しながら少し書いておく。
1 中村 正男さんの投稿 ·
上岡龍太郎さんの訃報に
上岡龍太郎さんの訃報に接し、1979年2月、黒田了一知事が革新府政3期目に挑戦した際、府立体育会館を超満員にして開いた「黒田知事をはげます府民のつどいで、小山乃里子さんとともに司会を買って出ていただいた姿を思い出しています▼このつどいで上岡さんがおっしゃった言葉。「わたしも、こういう仕事をしておりますので、本来ですと、これはぶっちゃけた話ですが、旗色というのはあまり鮮明にせん方が得なんです。いわば自分の思想はおしかくしまして、左の方もこんにちは、右の方もこんにちは、ほんとうはこういうとくほうが得なんです。そやけど、そうやってええことと悪いことちゅうのは、わきまえなくてはいけないと思うんです」▼上岡さんが載った「明るい革新府政」(明るい会機関紙)がいまも残ります。桂米朝、ミヤコ蝶々、笑福亭松鶴、市川房枝、青島幸男――。錚々たるメンバーとともに▼ユーモアも、気骨も、上方を代表する芸人でした。
・・・この現場、府立体育館に私もいた。そして上岡龍太郎さんの根性にいたく感動した。そのことを書きたかったが中村さんの投稿が的確なので紹介して私の感想に替える。
2 福山和人さんの投稿
上岡龍太郎さん逝去
「政治家とか言う連中は何の為に存在するのか分ってない奴が多すぎる。政治家で強いモンの味方する奴なんか最低ですよ、強い奴はほっといても生きていけるんやから。そうじゃなく、弱いモンの味方せえよ。そやなかったらお前らの存在意義は何なんや?ちゅう話でね。」
反骨の芸人だった。それもそのはず、彼の父親は、"いごっそう弁護士為さん"と呼ばれて民衆に慕われた小林為太郎弁護士、我が自由法曹団京都支部の創立者のひとりだ。
ちなみに僕のオヤジは幼い頃の龍太郎少年の子守りをしたそうだ。僕自身はお二人ともお会いした事はないけど、不思議なご縁を感じる。
上岡龍太郎さんは、父親の小林為太郎弁護士のことをこんな風に語ってる。
「自由と平等と正義をこよなく愛し、悪と権力に徹底的に刃向かい続けた親父。競馬も競輪もパチンコも麻雀も、碁も将棋も知らなかった親父。ただひたすら酒を愛し続けた親父。豪快で繊細で大胆で気が小さくて、正義感が強くて、制服と権力が嫌いで、ロマンチストで、手先が器用で、本が好きでひょうきんで、気が短くて、恐がりで、金儲けが下手で照れ屋で、単細胞で直情径行、思慮深くって優柔不断。
そんな親父の独特の気風は、今もこの世に残っている。私の体の中にはっきりと残っている。そして、私の息子の心にもソロソロ芽吹いてきている。親父の肉体はこの世から消えても、親父はいまだに生き続けているのだ。ちょうど親父の故郷の土佐の足摺岬に打ち寄せる黒潮の流れのように。親父の声は今も滔々と胸に響き渡っている。」
きっと為さんは「アホ言うな」と照れてるやろね。弁護士の父と漫才師の息子、立場は違えど、ともに真っ直ぐで優しい親子だった。
上岡龍太郎さんの声をもう一度聞きたかった。ご冥福を心からお祈りする。
「政治家とか言う連中は何の為に存在するのか分ってない奴が多すぎる。政治家で強いモンの味方する奴なんか最低ですよ、強い奴はほっといても生きていけるんやから。そうじゃなく、弱いモンの味方せえよ。そやなかったらお前らの存在意義は何なんや?ちゅう話でね。」
反骨の芸人だった。それもそのはず、彼の父親は、"いごっそう弁護士為さん"と呼ばれて民衆に慕われた小林為太郎弁護士、我が自由法曹団京都支部の創立者のひとりだ。
ちなみに僕のオヤジは幼い頃の龍太郎少年の子守りをしたそうだ。僕自身はお二人ともお会いした事はないけど、不思議なご縁を感じる。
上岡龍太郎さんは、父親の小林為太郎弁護士のことをこんな風に語ってる。
「自由と平等と正義をこよなく愛し、悪と権力に徹底的に刃向かい続けた親父。競馬も競輪もパチンコも麻雀も、碁も将棋も知らなかった親父。ただひたすら酒を愛し続けた親父。豪快で繊細で大胆で気が小さくて、正義感が強くて、制服と権力が嫌いで、ロマンチストで、手先が器用で、本が好きでひょうきんで、気が短くて、恐がりで、金儲けが下手で照れ屋で、単細胞で直情径行、思慮深くって優柔不断。
そんな親父の独特の気風は、今もこの世に残っている。私の体の中にはっきりと残っている。そして、私の息子の心にもソロソロ芽吹いてきている。親父の肉体はこの世から消えても、親父はいまだに生き続けているのだ。ちょうど親父の故郷の土佐の足摺岬に打ち寄せる黒潮の流れのように。親父の声は今も滔々と胸に響き渡っている。」
きっと為さんは「アホ言うな」と照れてるやろね。弁護士の父と漫才師の息子、立場は違えど、ともに真っ直ぐで優しい親子だった。
上岡龍太郎さんの声をもう一度聞きたかった。ご冥福を心からお祈りする。
・・・その父親が亡くなった日、その夜に上岡龍太郎さんは『鶴瓶上岡パペポテレビ』で「こんな話できるのは今日しかないから」と滔々と父親の話をした。
芸人は出演があれば親の死に目に会えないと言われるが、逆手に取った芸人魂を私は見た。
3 桂枝雀七回忌追善興行
・・・これは私の思い出。2005年だから上岡龍太郎はすでに引退していた。京都の南座に私はいた。
錚々たる米朝一門の芸の後、シークレットゲストに上岡龍太郎が紹介されたとき、会場のどよめきのすごさは尋常ではなかった。
枝雀にとってもこれ以上の供養はなかったように思われた。
上方の芸能を語るとき、上岡龍太郎を外して語ることはできない。
4 上岡演劇祭
これは直接かかわっていないが、上岡龍太郎が上岡演劇祭を主催して関西の演劇界に多大な貢献したことは記録しておきたい。
翻って現在の上方芸能、特にお笑い部門でこのような熱いスピリットを感じさせる芸人がいるだろうか。
上方芸能、しっかりしよう。
0 件のコメント:
コメントを投稿