2023年6月9日金曜日

羽衣の松 つづき

 
   昨日は現浜寺公園あたりにあった『羽衣の松』について書いたが、それに関連して小林利郷:文の『ちぬの海』を要約して紹介しよう。

 🔳昔から、海からの強風を防ぎ浜砂の動きを止めるために人々は、無法がまかり通る戦乱の世であっても、浜辺の松を大事に守ってきた。
 江戸時代、堺の浜寺を治めた田安藩は農地拡大のために紀州街道(だいたい阪堺電車の道)より山側の松は伐採したが、浜側は植林している。
 明治3年に堺県がおかれ、小江知事は「浜寺の松、伐採あいならぬ」と厳禁にしたが、次の税所知事は収入を失った武士の貧しい暮らしを見て「士族授産のため」松の伐採を許可した。
 明治6年、大久保利通内務卿はこれを見て、「こはけしかることかな。かかる名所の松の数百歳へたらんを、ことごとく切り払わんは、まことに情けなきわざなり、ここの司ともあるもの心なしや」と嘆き、『おとにきく高師の浜の浜松も世のあだ波はのがれざりけり』としたため、知事の懐にそっと入れた。
 で、知事は浜松を守ることとし、結果、日本最初の県の公園に指定された。後の府立浜寺公園である🔳

 その浜寺公園だが、敗戦後の昭和22年に駐留軍(米軍)の家族住宅地になり、緑色のペンキが塗られた住宅が幾つも建てられた。金網で囲われた公園(住宅地)はオフリミット(日本人立入禁止)となり、この工事に伴い『羽衣の松』も伐採された。

 昭和30年に海水浴だけ日本人にも開放されたが、金網で囲われた狭い通路を歩いて海まで「通らせていただく」というものだった。
 昭和33年に日本に返還されたが、堺泉北臨海工業地帯造成工事も進み、廃油ボールなども増え、ついに昭和37年には海水浴も禁止になった。

 浜は遠浅でモチ貝(カガミ貝)などがよく採れたが、沖の遠浅に行くまでの間に一旦深いところがあり、私はそういう危険がない大浜海水浴場の方がよほど上級のように思っていた。
 海水浴から帰ったら採ったモチ貝を焼いて食べたのが美味しかった。それ以外には、赤貝に似たサルボウ貝(サブロウ貝とも)、ワタリガニ、ガッチョなども採れたりした。

 ところで上の文章に『高師の浜』が出てくるが、今は高石市の地名だが、元は摂津の住之江(住吉)から堺~高石までの広い地域を指す地名であった。

 音に聞く高師浜のあだなみはかけじや袖のぬれもこそすれ  は、百人一首にも名高い。

 以上のとおり、私が小学生の頃はこういう白砂青松の風景がそれなりに残っていたが、羽衣の松はすでになかった。
 中学生になったときには大埋め立て工事が始まったが、それでもまだ漁業も残っていて、中学校の校庭のあちこちや周辺の道路にはジャコが一面に干されていた。おまけを言えばその上には銀バエが飛び交っていた。
 高度成長の少し前のことである。歳をとると訳もなく懐かしい思い出話だ。

6 件のコメント:

  1.  今年になって友人Oが亡くなったが、もし生きていたなら「ちぬの海の話おもしろかったわ」と電話をかけてきたことだろう。そういう男だった。そんなことを思いながら記事を書いた。

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  2. 亡くなったOさんと「チヌ釣り」に夢中になっていた頃、チヌの語源について知人から聞かされ泉佐野の「茅渟の宮」を訪ねたことがあります。
    允恭天皇と衣通姫とのロマンスの話もありますが戦で負傷した天皇の子がこのあたりの海で血を拭った「血拭いの海」が「チヌ」の語源だとも聞かされました。

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  3.  古事記には「・・故謂血沼海也(故にちぬの海と言うなり)」とあります。初代天皇神武(イハレビコ)が九州から大和に向かって東征し、大阪湾河内湖から上陸しようとしたが、大和側のナガスネヒコが応戦し、神武の兄のイツセが手に大きな痛手を受けた。神武は作戦を変更し大阪湾を大きく南下し熊野から北上することにした。その大阪湾南下の途中イツセが傷の血を海水で洗ったので、この海を血沼(ちぬ)の海と言う。なおイツセは亡くなった。

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  4.  今日の「ちぬの海の」の著者、最初の記事には小川利郷となっていましたが、本の表紙には小林利郷ですね✨
     小林先生は小生の小学校時代、放送部の顧問でした👴
     その後、風の便りで校長先生になったと。
     退職後は民主的運動の場でお会いしてきました‼️地域の歴史問題に取り組んでいると聞きましたが、まさかキハチのブログに登場するとは(まさか)
                         ヤマ君

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  5.  誤字の指摘ありがとうございました。著者はそういう方だったのですね。そしてその薫陶を受けられたとか、さすがです。この本、大事にします。
     古事記だけでなく、この本には「ちぬの海」の名前の由来についての諸説も紹介されていて勉強になりました。

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  6.  我中学校の校歌は ♬ちぬの浦風 さわやかに 希望ゆたけき この学舎 平和の光 仰ぎつつ 清く正しく 進みゆく この学舎に 幸多し でした。出島の「わんど」が遊び場でした。
     臨海工業地帯が出来る前は、夏休み時、湊に海水浴場が出来て 浜寺 羽衣 助松 岸和田方面 泉佐野 箱作と一望できました。懐かしい想い出です。  孤高岳人

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