感染状況や、自分や家族の体調にびくびくしているうちに時代に追い抜かれた気がした。
さて、いろいろあって長い間発行が遅れていた「ニュース」の発送作業をようやく終えた。宿題というか追試をようやくクリアしたような気分の爽快感はあるが、前述同様「何かに追い抜かれた」もやもやも残った。とりあえず発行した・・でよいのだろうか。
いろいろ言い訳はあるが、スタートの遅れを克服できなかったこと、原稿依頼者が絞られたこと、編集議論を遠慮して結果として不足したこと、やはり頭の中で何かに追い抜かれたような「もやもや」が残った。
そこで、「調査なくして発言なし」との言葉もあるので、モニター第1号の妻に感想を聞いてみたところ、妻は視力に大きな障害があるので文字を読むのが苦手なのだが、そのことは読み込み済みとして、今回の印刷機、インク、紙質のこともあるかもしれないが、「何か暗くて読みにくい」「文字ばかりが広がって堅そう」「読みたいという気が湧き辛い」という辛辣な感想がまず第一に返ってきた。
「水を飲むときは井戸を掘った人のことを思うべし」という諺を知らないか」と腹も立ったが、「正直な感想」を聴いて腹を立てるのは下の下であろう。今回の編集は数々の意見を飲み込んで数々の妥協を重ねたものだから言いたいことは山ほどあるが、ここは真摯に反省する。
さてさて、われわれのニュースは多彩な声が反映してこその魅力でなかったか。寄稿者を限った編集方針は正しかっただろうか。違う角度から語ると、一番の読者は寄稿者であるという真理もある。前向きに大いに議論したい気分でいる。
年齢や体力を考えると、この先いったい何本・何字の原稿を我々は書けることだろう。と思うと、友人たちが、遺書ではないが「もっと書かせてくれ」というような状況を用意して、その結果そういう「自業自得」で苦しむというのが編集者冥利だと思うのだが。
あとは技術的なことが多いが、見出しの文句がややもするとシュプレヒコール的に感じる。
長い記事には本文を読みたくなるようなリードをつけて、2段抜き等を考えてはどうか。
囲み記事や息抜きの記事を意識的・効果的に配置したいものだ。
これからも自分自身に言い含めよう。マルクスはジャーナリストであったと。
編集を手伝ってくれる友人の申し出を期待する。
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