2020年10月4日日曜日

エールと戦時責任

 昨日の記事で、音楽挺身隊リーダーが「音楽は軍需品」と述べ、納得しない音(おと)を「非国民」と指弾したことを書いた。

   さらに書きはしなかったが、裕一の古い友人たちも戦意高揚一色の音楽界から去るにあたって、例えば木枯は音に「変わんないですね裕一は。まっすぐで純粋で」と伝えた後で「利用されなきゃいいけど…」とつぶやき、音も心の底で何かを察したようだった。

 ところで私は、このドラマから裕一の純粋さというか鈍感さを「正しく」批判し、「みんなで戦時体制の危険性を再認識しよう」と書くには若干の躊躇がある。間違っているわけではない。正しい。「しかし」と残る思いがある。

 誤解のないようにことわるが、例えばドイツに比べてわが国が戦争責任の総括をあいまいにしたために戦後の種々の歪みが生じているとの指摘は正しい。そういう意味で、いろんな階層での人々の反省・総括はドイツがそうであるように不断に繰り返さなければならない。

 事実、私の父は航空機会社の管理職として敗戦を迎えたが、およそ「軍」と名のつく書類や用具は徹底して焼却処分、早い話が証拠隠滅を行ったと語っていた。そういうことは全国、全軍、全産業で行なわれた。お気づきのとおり赤木俊夫氏の自死を含む森友問題の証拠隠滅・証拠改竄の遠因はこんなところにもあった。

 そういう思いと同時に、今は丁度「大阪市廃止」住民投票反対運動の真っ最中である。そのことと重なって思うことは、一旦少数派に追い込まれた第一組合が多数派に返り咲いた某労働組合の教訓を聞くと、「最初は第二組合員が全部裏切り者に見えたが、彼らも同じ被害者だと思えるようになってから職場が変わっていった」という言葉だった。

 戦時歌謡を量産した裕一を現代人が批判することは容易い。批判は正しい。同時に先駆者には原則と同時に度量も必要だと私は思っている。朝ドラと「大阪市廃止問題」がオーバーラップして判りにくい記事になったがご賢察を乞う。

2 件のコメント:

  1. そのような時世にならないようにしないといけないのですね。

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  2.  戦時中は戦意高揚の曲を量産し、戦後は戦後で長崎の鐘をはじめとする名曲を量産した古関裕而は、見事にあの時代の多くの日本人の典型なのかもしれません。面舵いっぱいの現代、近現代史が大いに語られなければなりません。つづきを明日も書きます。

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