2023年4月30日日曜日

明日はメーデー

   1886年5月1日にシカゴの労働者が8時間労働制を求めてストライキとデモ行進を行ったことから「5月1日 メーデー」が始まったが、その歴史的な意義は全く色あせていないとつくづくと感じる昨今だ。

 戦前の大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど糸へんを中心とした工業都市でもあった。
 その雰囲気は1960年代でも色濃く残っており、私が育った大和川以南の泉州地方には大きな紡績工場が少なくなかった。
 工場は失礼ながら刑務所を思わせる高い塀に囲まれており、四国地方が多いように思ったが、若い女工さんたちがたくさん働いていた。
 その塀の中に寮があり、仕事明けにはお茶お華などがあり、女工さんたちの生活は24時間が塀の中だった。違法な深夜労働もあった。

 シカゴの8時間労働制の要求は、人間らしい生活をしたいという崇高な要求だった。

 21世紀の今日、その崇高な要求は実現しているだろうか。否。
 いろんな要因があるが、私は二つのことを指摘したい。
 一つは、労働者派遣法である。この法律ができるとき、共産党や国公労連・全労働などは強く反対したが、「現に脱法的な派遣労働が存在しているのだから法整備した方がまし」という声で成立してしまった。「派遣労働者は派遣先の指示を受けない」という真っ赤な嘘を前提にした法律だった。
 ハケン、ヒセイキが大きな顔で日本に広まった。そして格差社会が生まれた。

 もう一つは外国人実習生制度の導入だった。これも、実習という言葉を隠れ蓑にした低賃金外国人労働者の劣悪な労働条件を隠すイチジクの葉っぱだった。
 当該外国人労働者の労働条件も悲惨だが、それが一般労働者の足を強力に引っ張った。

 その後も労働者保護法制は労働基準監督官など現場公務員労働者の奮闘にも拘らず行政体制が充実どころか疲弊させられ、少子化問題に示されているような閉塞感漂う社会に至っているのである。
 5月1日メーデーの意義はここにある。労働者は単なる商品ではないのだ。労働法制を改善させる運動は人間らしさを充実させる要求なのだ。
 連合の中央メーデー集会には首相が登壇するらしい。私には怒りしかない。
 心ある大阪の者は扇町公園に行ってみよう。

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