2023年4月22日土曜日

堺五月鯉幟

   歴史を遡ってみると、普通に言う幟(のぼり)など旗指物(はたさしもの)は、多く軍隊や権力者のシンボルとして翻(ひるがえ)って来ていたが、そういう中で、歴史の浅さともあいまっているが、鯉のぼりにはその種の汚点がなく。あえて言えば近代以降鎧兜と一緒に祝われるだけだが、本来武家では鎧兜を飾りかつ通常の幟を立てたが、それに対して町人たちは、武家への忖度で、吹き流し型の鯉のぼりを立てたのであった。鯉幟は庶民のシンボル、平和のシンボルとあえて言いたい。

   さて、次のしおりを紹介する。 【明治初期 玩具商を営んでいた初代高田儀三郎(高儀)は、お伊勢参りの帰り名古屋で見た紙鯉にヒントを得てイカ(和凧)職人に紙鯉を作らせたところ、これが大いに人気を呼んだという。当時、幸いにも大阪から堺へ通る住吉街道筋には多くの勝間(こつま)凧の職人たちがいた。
 関西鯉の特徴とも言える鯉本来の姿形を取り入れた鯉幟は「高儀の鯉」として、関西に知れ渡った。
 明治中期以後、織機の発明から、広幅の白生地に描くようになったと言う変化があるだけで、手描きによる形状や色使い作成方法など、当初から全く変わらず今日に至っている。
 又、高儀の代表作である鯉の背中に金太郎が跨っているのも、いかにも和凧職人らしい発想からできた鯉幟であると言えよう】

   堺の古くからの友人が私のブログを読んで、高級な『鯉のぼりのタオル等』を送ってきてくれた。「私の姓+りんちゃん」という宛名で「ゆうパック」が届いたのも可笑しかったが、上記のような「しおり」も楽しく読んだ。

 そうか、有名な広重の「名所江戸百景水道橋駿河台」の鯉のぼりは和紙だったのか。
 国立東京博物館にも和紙の鯉のぼりがあり、それが明治の中期近くから布(スフなど)製となり、昭和30年代以降化学繊維になったらしい。

   最初に述べたとおり、そもそもは江戸の武家屋敷が端午の節句に幟を立てたのに対抗して町人が立てたものだが、その場合、少し武家の幟に遠慮して「吹き流し」の形にしたというから、旗指物としては非常に珍しく、一般の多くの旗指物のように戦の血に染まっていないのが良い。
 
 岸田首相がゼレンスキー大統領に宮島のしゃもじを贈ったが、それでロシアを飯とる(めしとる)というのは発想が古い。
 ロシアを撤退させたら平和のシンボルとしてウクライナに鯉のぼりを送りたい。(けっこう本気)

2 件のコメント:

  1. 幟り旗で一言  一揆旅余話
    奥美濃では郡上一揆、飛騨では高山騒動の資料を見分した後に、車はひたすら北上して能登で宿をとった。そして能登半島をぐるっと巡った。幸い天気にも恵まれ、千枚田や朝市にも立ち寄り、一向一揆の加賀に向かった。そこは北陸道小松インターから国道360号線に入り、しばらく里を走り、山を越え、谷を越えてトンネルを潜ったところが鳥越村であり、一向一揆の里であった。この一揆は歴史の上でも、越前・加賀など地域性とか、蓮如上人の一向宗派(門徒集団)の関わりなどを総合的に学習しないと事おろそかに書けない。ただ鳥越村の一揆資料館で出会った二つの文字が書かれていた事に興味がわいた。一つは「加賀ではかつて百姓の国が有った・・・・・」。もう一つは一揆の先頭に打ち立てた2本の白色っぽい幟り旗である。(丈は2mほどの長さ)一つは「進者 往生極楽」と、もう一つは「退者 無間地獄」である。民衆自らの権利が迫害された時、どう生きぬくかである。私は自問自答のすえ、閻魔大王には会いたくない、極楽に行きたいとの結論を出した。ゆえに頼りなげではあるが進者の道を選んではいるが・・・・・。
    孤高岳人

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  2.  「小〇」の筵旗のことなど、コメントありがとうございます。

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