2023年4月30日日曜日

山背(やましろ)

   地域名で、京都のこと特に京都南部のことを山城(やましろ)という(ex山城国一揆)が、この表記は桓武天皇の平安遷都以降のことで、奈良時代以前は山背(やましろ)と表記されていた。
 私のブログは歴史に関わることだとどちらかというと奈良時代以前の事柄に重心が乗っているので「山背だよりyamashirodarori  』というタイトルにしてある。

 山背というと、厩戸皇子(聖徳太子)の子の『山背大兄皇子』が有名だが、 黒板勝美編『日本書紀」では「やましろのおひねのみこ」とルビが打たれている。一般的には「やましろのおうえのおうじ」か「・・みこ」である。

 ただ浅学のため、背という字を「うしろ」と読むのは知っているが「しろ」というのは知らないので、ほんとうは「やまうしろ」ではなかったかというような妄想を消せないでいる。

 それはさておき、こんなことを書いてみようと思ったきっかけは、平城京長屋王宅跡木簡を見ていたとき、王家の所領である山背薗(やましろのその)から大根などが送られてきたという木簡なのだが、その解説に「大阪府河南町」とあったので驚いたからである。

 長く大阪の住人であったが、大阪にも山背(やましろ)があったのだ(知らなかった)。
 私が、平城京をイメージして、山背とは平城京の北の平城山(ならやま)の「うしろ」そして「きた」を指すと漠然と理解していたのが不正確だったわけだ。
 「きた」を外して「山の背」であれば、生駒山系の向こうも山背であって一向にかまわないということだろう。

 早速ネットで地図を検索すると、富田林と接する河南町の大字(おおあざ)に、今もしっかりと「山城」とあるではないか。・・知らないことばかりだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿