ただ江間章子は暦の季節で詩を書いたので、夏休みに夏山に行っても水芭蕉(みずばしょう)も石楠花(しゃくなげ)も花期を過ぎている。以上はいらぬ前書き。
そして、〽石楠花色にたそがれる‥とはどんな色というのにも諸説あるが「黄昏時の夕焼け空の色」あたりが素直な解釈で良いのではないか。
13日、長居植物園の石楠花は満開だった。近頃は西洋石楠花や、さらにはツツジなどとの園芸交配種が増えていて、「たそがれ色」とは程遠い豪華さだ。
私は3回ほど庭に石楠花を植えたことがあるが、結局みんな枯れさせてしまった。
そういう怨念もあって満開の石楠花を楽しんだ。
ただやっぱり、美しすぎる石楠花には「夏の思い出」に漂うような情趣が消えているためか、当日参加メンバーにはもう一つ人気がないように見えた。
「夏の思い出」で二言、なぜ江間先生は「夏の想い出」にしなかったのか、「想」の字を辞書「漢語林」で調べてみると、随想 夢想 幻想 連想 理想・・・・。とある。一方「思」であるが、まず思い浮かべる言葉は「思慮に欠ける人物」である。小生の代名詞のような言葉です。ですから総合的に判断して「夏の想い出」がエエかなと。もう一つは中田喜直先生である。「夏の思い出る」「ちいさい秋みつけた」「雪のふるまちを」と春の歌を聴かない。答えは父君「中田章」先生にある。ETVの番組で紹介されていた。父中田章さんが作曲した「早春賦」にある。父の唯一有名な曲であった為、尊敬する父を想いやって、春の歌作曲を控えたのではないかと・・・。
返信削除「早春賦」の話は有名な好い話ですね。戻って「思」ですが私は門外漢でよく知りません。で、愛用する『白川静・常用字解』によると、「田」のところは元々は「囟」(し)で、ひよめき(幼児の頭蓋骨の縫合部分)の形で「考える働きのある脳のあるところ」それに心を加えて「おもう、考える」の意味となる。(用例)に思惟、思想、思念、静思、沈思とありますから、これはこれで立派な字でしょう。
返信削除「想」の「相」は14日にも書きましたし、それ以前にも触れたことがありますが、「魂振り」の思想だと白川先生は述べておられる。となると、「早春賦」はそもそも「賦」(日本で言えば土地誉めの文学)ですから文字どおり「想」が相応しかったような気がしないでもありません。コメンとありがとうございました。
ご教示ありがとうございます。(用例)については当方の「漢語林」にも 愁思 慎思 聖思 旅思 沈思・・・・があるのは知ってました。となると、どちらでもですね。私の思考回路には、岳都信濃大町が輩出した登山家であり、また事業家でもあった百瀬慎太郎が詠んだ 「山を想えば 人恋し 人を想えば 山恋し」の、想えばの言葉がめぐり廻っていた為、想えばの発想があったのかも。この百瀬慎太郎氏は若山牧水と親交があったと言われている。 孤高岳人
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