2021年3月11日木曜日

知らなかった者の罪

   今日は3.11。 フクシマ第1原発事故から10年が経過した。 はやぶさ2の技術をもってしても未だにメルトダウンによって溶け落ちた核燃料(デブリ)は取り出せていないのみか正確なデブリの状況も把握できていない。 当事者側からもあと2~30年はかかると言われているが2~30年で解決する根拠は何もない。 汚染水もアンダーコントロールどころかタンクは満杯に近づいており、1000トン用タンクを2日に1基製造しなければ間に合わなくなる。

 上記の問題に解答もないまま、再稼働だとか果ては増設だとかの意見も出ている。この国の”脳みそ”はホントウに大丈夫だろうか。

 さて先日、ナショナリズムに関わってドイツにおける「当時ナチズムを知らなかった者の責任」について若干記述したが、原発の嘘を知らなかった者、原発は安全だと騙されていた者の責任を皆で考える必要がありはしないだろうか。かくいう私も、原爆は絶対に許せないが原発は核エネルギーの平和利用だと考えてきていた。日本人の知恵と科学技術力なら制御できる、フクシマ第1原発事故のようなことは起こらないと漠然とではあるが信じていた。普通の世間の言葉でいえば、私は知らなかった者、騙されていた者であった。

 一方、原発が電力を”多いに”消費する大都会近くではなく、土地の広さや土地代でいえば幾らでも大都会周辺に土地があるにもかかわらず、地方(あえて判りやすくいえば田舎)に建設されたにはそれ相応の危険性があることは感じていた。それぐらいのことを感じないようでは選挙権を持つ「国民」に値しないだろう。

 またフクシマの事故以前にも原発での事故は度々あったが、それらの被害者が電力会社の正社員ではなく下請け孫請けの労働者であることも新聞テレビで見聞していた。正社員は危険な作業には従事しないのだ。記憶に止めたかどうかは別にしてそんな事実は一切知らないという「国民」はいないはずだ。

 少し話は変わるが、私は自治会の役員の経験もあるので、いわゆる嫌悪施設(公共性は認められるが自分の街、自分の家の隣には建てて欲しくないと一般に思われている施設)などの建設に当たっては、屡々「札束で頬を張る」ような現実も知っていて、原発の建設と運転に関わってその種の噂のあることも知っていた。後に関電が高浜町に投じた額、北陸電力が志賀原発に投じたいわゆる原発マネーが私の想像を何桁も超えて驚いたが、その種のニュースは全国の電力会社で報じられていた。

 それでも「知らなかった」のだろうか私は。「騙されていた」のだろうか私は。

 日本の原発の出発点は明らかに「核兵器の技術」を頭の一部に置いたものだったと私は考えている。実際当初の軽水型炉はアメリカ製で、もっと正確に言えばアメリカが日本に開発中の原子炉を買わせて、その上で安全かどうかなどを日本で実験していたわけである。

 高度に安全なはずの原子炉が実に無茶苦茶な欠陥商品であったことは2020年2月3日に「原発運転差し止め判決が出た理由」としてこのブログに書いた。文末にアドレスを貼っておくのでこの際、是非とも再読してほしい。

 人間は、過去を取り替えることはできないが、過去に学び未来をコントロールすることはできる。否、そうしなければならない。その時、過去に目を閉ざして、あえて踏み込んで言えば「良心にとってしんどくなるようなテーマは見て見ないふり」をして、私は知らなかった騙されていたと言うことでよいのだろうか。

 私は原発を推進した政治家や電力業界の主たる責任をあいまいにするものでは決してないが、本日の記事は自分自身と、そして自分とよく似た「国民」一般に問うことをメーンにする。この社会に正しいモラルが必要だと考える方、あるいは心ある宗教家の方々にはそういう「騙された責任」についても言及して見解を表明してほしい・・・と、フク1、10年に当たって考えている。

 ◆ 2020.2.3 ほんとうは日本列島が壊滅しそうな状況であったフクシマ第1原発が奇跡の欠陥商品であったことについてのブログは次のアドレスから移動できる。

https://yamashirokihachi.blogspot.com/2020/02/blog-post_3.html

1 件のコメント:

  1.  昨日10日、東京大空襲の慰霊法要があり、小池東京都知事が「こうした戦争や災害の記憶を、決して風化させることなく、次の世代へ語り継いでいく責任があります」と述べたというニュースが報じられ、私はある種のショックを受けた。つまり、阪神淡路大震災でも、東北大震災でも、フクシマ第1原発事故でも、私たちは「こうした災害の記憶を、決して風化させることなく、次の世代へ語り継いでいく責任があります」程度の言葉でお茶を濁していないだろうか。いいね!をポチッとして、シェアするをポチッとして何か良いことをしたつもりになっていないだろうか、私たちと都知事のあいさつの間にどれだけの違いがあるだろうか。今日の記事は自分自身に対してキツイ表現が多かったかもしれないが、私や民主主義を求める人々にとって大事な視点であるように思う。

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