写真の供養石塔は今春の1.17にも書いたが大阪・四天王寺境内のものである。諸国地震及洪浪 南無阿彌陀佛 水陸横死大菩提 に続いて、去年霜月四日五日の地震を 遁(のがれ)ん為に小船に乗居し 輩(やから)俄(にわか)の洪浪湧か如く木津川口邊の大小 数(あまた)船一時に川上に押寄橋を落し船を摧(くだ)き漂没死人 夥(おびただ)し尤(もっとも)前日より海鳴潮の干満乱しを志(し)ら寿(ず)して死に至る者 寔(まこと)憐むへし 后(こう)世(せい)海鳴潮の干満(かんまん)みだれし時は早く津波の兆(きざし) しと知りて難をのかれ玉ふへしと云(いう)爾 安政二 乙(きのと)卯秋建之 というものである。
実際には他の墓石に埋まって一部しか読めないが、NHKと大阪市教育委員会が調査して判読した。
さて、この安政の津波(1854)は標高2.9mまで遡ったといわれているが、それより約150年前の宝永の津波(1707)は標高3.6mまで遡った。さらに古文書によると正平16年(1361)の津波は6mに近かったとされている。早い話が上町台地より西の現在の大阪市内の市中は津波にさらわれたわけである。天王寺西門近くの安居神社まで津波が来たと法隆寺の僧侶が記録している。
このようなことを考えると、コロナ禍でもオリパラを進めようとする自公政府も、埋立地でカジノだ万博だという維新の府市政も、カネや権力に目がくらんだ為政者というほかない。
1.17でも書いたことだが、安政の津波の石碑は大正橋東詰北側にもあり、ここの碑文の最後には「願くは、心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」とある。心ある人はそれぞれの言葉と方法で、年々語り続けてほしい。
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