10月21日に「長屋王の変」を書いたが、同じ本の第13講は「菅原道真左降事件」である。
道真の本姓は土師氏で、古墳や埴輪づくりや葬送儀礼を本務としていたが、薄葬令もこれあり、学問の道に転進し、菅原氏に改姓を行った。秋篠氏、大江氏も同じ。
その姓の元となった奈良の菅原の地には現在菅原天満宮があり、孫の凜ちゃんのお宮参りをしたのは余談である。
つまり道真は学者であり優秀な官僚ではあったが、天皇家や藤原家等の貴種とは言い難く、学者にありがちな筋を通した(忖度しない)言動は多くの敵をも作ったようだ。
そのため901年(昌泰4・延喜元)醍醐天皇は突如右大臣菅原道真を大宰権帥に左降した。昌泰の変である。
この本では事件の原因を、①左大臣藤原時平の陰謀、②道真は無実で後院別当を務めた源善らが醍醐天皇の廃立を画策、③道真は無実で宇多法皇が廃立を主唱、④道真も源善と法皇の廃立計画に参加、⑤醍醐天皇の過剰反応、の説を提示し、結局⑤の醍醐天皇の過剰反応であったが、道真も対貴族社会等々への政治手腕に不足するところがあった。というニュアンスで書いている。
さて、人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』には「せ(す)まじきものは宮仕え」という有名な台詞があるが、私も現職時代はひょんなことで嫌な問題収拾のポストに就き、一番感謝されていい人々から恨まれた記憶がある。で、「せ(す)まじきものは宮仕え」を実感している。
903年に道真が亡くなり、その後怨霊としての跳梁が云々され、923年には右大臣に復位、正二位を遺贈、左降の宣命が焼却され、ついには天満自在天神さまになったのはご存知のとおり。
菅公腰掛石 |
時は遡って、道真が宇多上皇が奈良にお出かけになったときに、旅の安全を祈って幣(ぬさ)をたむける山で「今回の旅は幣の用意もできませんでした。手向山(たむけやま)の色とりどりの紅葉の葉を幣として差しあげますので、神のお心にしたがってお受け取りください」と詠んだ次の歌は百人一首でも有名。
〽 このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
その折に道真が腰掛けたと言われる『菅公腰掛石』が手向山八幡宮にあり訪日観光客にエクスキューズミーと言ってシャッターを押してもらった。
この神社は手向山八幡だがこの辺りを手向山というのは聞いたことがない。
とはいえ詩歌の世界でそんなことを突き詰めるのも無粋かもしれず、八幡宮は言うたもん勝ちだし、腰掛石も座ったもん勝ちで良くないだろうか。
この八幡宮、10月11日に書いた「土馬」の記事の「立絵馬」の神社であるが、立絵馬は2500円とちょっと値?が張る。
菅承相(道真)の子、菅秀才を守るため赤の他人(実は、という件があるのだが)の子どもの首を差し出す寺子屋の夫婦が「すまじきものは宮仕え」と嘆いても、、、殺された子どもの親にしてみれば、とその不条理に納得がいかないと以前ブログに書きましたが、理不尽なるが故の哀れが浄瑠璃の本筋ですね。
返信削除それにしても「土絵馬」の2,500円は、、やっぱり自分で作ってみよう!
子どもを殺させようと差し向けた松王丸。文楽(人形浄瑠璃)は奥が深い。
返信削除この文楽を維新をつくった橋下徹(当時大阪市長)は「面白くない」とバッサリ捨てた。嫌ですね。