2019年10月21日月曜日

令和の出典と長屋王の変

   ちくま新書の『古代史講義(戦乱篇)』を楽しく読んだ。
 第6講『長屋王の変』も楽しかった。
 長屋王は、父が天武天皇の第一皇子の高市(たけち)皇子(太政大臣)で、母が天智天皇の皇女御名部(みなべ)内親王である。
 御名部内親王は元明天皇の同母の姉である。

 配偶者は4人とされているが、正妻は吉備内親王で、父は天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子、母は元明天皇である。
 まあ、眩しいようなサラブレッド皇族で715年(霊亀元)には子が皇孫の扱いをされている。
 718年(養老二)には大納言、721年(養老五)には右大臣、724年(神亀元)には左大臣となり、政治的にも着々と成果を上げていた。
 端折るが、血筋、力量、年齢からいって本人及びその子は天皇になる可能性も小さくなかった。

 しかし、721年(養老5)に大きな後ろ盾であった元明太上天皇が亡くなり、724年(神亀元)に聖武天皇が即位し、藤原光明子が皇后になり、世は藤原四子(不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の時代に移っていった。
 かくして奈良朝戦乱史の第一幕が始まった。729年(神亀6)2月、謀反の冤罪を着せられて、吉備内親王、子息4王とともに自殺に追いやられた。

 この本を読むと、万世一系を謳う天皇親族間の歴史は裏切りと殺し合いの歴史ともいえる。
 で、4月の頭にも書いたことだが、安倍首相らは令和という元号を「国書だ国書だ」と言い、如何にも華やいだ目出度い好字だと言うのだが、その時代というのはこういう時代であった。もう少し歴史を追う。

 728年(神亀5)、官歴からいっても年齢からいっても下位の藤原武智麻呂が大納言になる一方、本命と目されていた非藤原の名門の大伴旅人が太宰帥に体よく左遷させられた。
 翌729年(神亀6)(天平元)、以上に書いたとおり、非藤原の強力な皇位継承候補者であった左大臣長屋王と、吉備内親王や息子たち諸王もことごとく冤罪によって謀殺された。
 
 その翌年730年(天平2)正月13日に大宰府の大伴旅人邸で宴が催され、客人たちが梅の花を題にして歌を32首うたったのである。万葉集のその序文が・初春令月・・である。
 主人はもちろん非藤原の旅人。客人は藤原派、非藤原派いろいろ。皆んなできるだけ平静を装って正月を祝うように明るく振る舞いつつ、心は京(みやこ)のこの先のことだったに違いない。

 この時点で京に赴いていた朝集使はまだ帰っていなかったという説と小野老が帰任していた説もあるが、いずれにしても、京の大変動(藤原の一派独裁が進んでいく情報)を旅人は大宰府であれこれ聞くだけであっただろう。
 かくのごとく、「初春令月・・・」の序文は虚飾の序文で、食品サンプルというか誇大広告のようなものというのが「正解」である。
 こうして、上田正昭監修、千田稔著『平城京の風景』の中の小見出しが「天平という名の非天平」とあるのはさすがである。
 何かの文書に元号を書かれる場合は、このブログを思い出し、この元号「ほんまはあかんねんで」と笑ってほしい。

1 件のコメント:

  1.  関西ローカルのテレビ番組『明石家電視台』に、誰かが滑ったりしたときに、さんまが「まあまあ、ええんやけど」と言った後、中川家たちが「そやけど、ほんまはあかんねんで」というギャグがある。以上、念のため申し添えます。

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