2019年10月11日金曜日

土馬について

   先日、『平城京の河川・溝でおこなわれた律令祭祀』の講義を受けたが、講義の途中で、平城京の道路の脇を流れる溝や運河から出土する土馬について私は興味が膨らんだ。
 講師の小笠原好彦先生は平城宮の発掘調査に携わっていた1969年頃に「これは雨乞い(祈雨)の祭祀に使われた」と講演の場で発表されたというのだが、講義では「龍神は駿馬を好むの常識のとおり」と、あっさりと話を進行された。
 えええ、私には咄嗟に付いて行けるだけの「常識」がない。で、質問をして理解が深まった内容は次のとおりだった。

   さて、古くは道教の「長江の水神である河伯(かはく→カッパ)には牛を貢ぐ(生贄)」が、黄河流域では牛が馬に代わり、その中原の「河伯は駿馬を好む」思想が日本に伝来したと考えられる。
 日本書紀に、雨乞いのために牛馬を殺し、諸社で祭りをするという記事があるのがそれである。
 しかし続日本紀には、国の禁止にもかかわらず、牛馬の屠殺が止まらないため、新たな罰則を科すという記事が出ているから、この間に、生馬の生贄は禁止され代用品として土馬が用いられるようになったのだろう。

 下ると、「水を司る神」を祀る貴船神社や丹生川上神社には、日照りや長雨が続くと、朝廷より勅使が派遣されて、降雨を祈願するときには「黒馬」が、止雨を祈願するときには「白馬」が、その都度奉納される習わしになっていった。

 小笠原先生の話には続きがあって、その発表の講演の会場に考古学と古代の祭祀の研究で著名な故水野正好先生がおられ、水野先生は後に、小笠原先生の「祈雨の祭祀」であるとともに、恐ろしい災厄をもたらす疫病神を土馬に乗せて、穢(けが)れとともに水に流したと発表されたという。
   つまり、祈雨か除災かではなく、最初は祈雨だったがそれに除災も加わっていったというのが実態であったようだ。
 小笠原先生も現在ではそのように述べておられる。

   そして、奈良時代に入ると、朝廷の大きな雨乞いには実物の馬を奉納したことが文献にも記されているが、庶民等が担った土馬の祭祀の方は、土馬に代わって板製の馬形になり、さらには板に馬の絵を描くことが始まった。つまり絵馬である。(手向山八幡宮の古式の絵馬は吊るすのでなく立っている)
 かくして、国家を揺るがしかねない旱魃・飢饉等に対抗する重大儀式から個人の病気等の厄災の除去を経て、今や〇〇校に入学できますようにだとか、いい人に巡り合えますようにというように変わって来たので、それはそれである意味平和の象徴といえるかもしれない。

 繰り返すと、土馬は祈雨や除災の形代であり水に流すものであったが、それは後に絵馬に変化していった。
 以上、律令祭祀の講義の枝葉末節の一部分を納得したという些末な話で申し訳ない。

2 件のコメント:

  1. 写真の「馬型木製品」に興味をひかれました。お守りなのか、玩具なのか分かりませんが作ってみたい気になりました。それと「立絵馬」は説明では木製のようですがヤフオク!には土鈴が載っていました。江戸から明治にかけて在った「立版古」(日本のペーパークラフト)にも似ているように思いましたが木製で神社に奉納するのであれば違うようですね。

    返信削除
  2.  馬形木製品は土馬と同じ祭祀の用具といわれています。現在も神社において節分や名越の大祓で使われる形代(かたしろ)の紙と同じでしょう。願いを込めて息を吹きかけて水に流すというのが基本形でしょう。自動車のお祓いに自動車の形をした形代というのは全く同じ思想でしょう。
     立絵馬は絵馬の古形です。こういう風に見ると、人間の考えることは昔も今も基本的には変わりません。しかし、願いの中身も方法も用具も少しずつ変わっていっています。それが何となく面白いです。

    返信削除