義母の納骨のために結構有名で大きな霊園に行ってきた。
何年振りかで行ったのだが、事務所棟は拡充していたから、高齢化社会の波に乗って経営は上手くいっているのだろう。
その経営の一端が垣間見られたひとつは、昔はなかったペット葬の会館のような棟があったことだ。
そういえば事務所棟にペット用の石碑のような見本があったから、想像するに〇〇家先祖代々のような墓石の横あたりにおいて「いつまでも一緒」という感じなのだろうか。
「それもあり」にした?才覚にはシャッポを脱ぐ。
その二つは、樹木葬エリアの案内があったことだ。
墓石代わりの大きな木が植えられて、季節ごとに花が咲いたりして「墓参りに来てくれなくても寂しくない」的な気分にマッチしているのだろうか。
子のいないものだけでないニーズがあるのだろう。
その気分は十分理解できる。
その三は,墓じまいの案内ポスターだった。
少子化や生活圏の拡大(転居等)で墓の維持が困難になっている現実がある。
一人っ子と一人っ子が結婚したら2つの墓を維持し、その子たちが同じような境遇なら4つの墓を維持しなければならないというような状況は現実的な課題だから、〇〇家の墓的なものの未来は明るくない。
ついこの間まで「墓の無い人生は儚い」みたいなCMを流していて、次は「墓じまいだ」という商才には尊敬の念すら感じる。
私は、骨という物質に過大な思い入れを持つのは仏の教えでもないように思う。
墓石の向こうに父母や祖先を思うのも良いことだが、お寺や仏像の向こうに父母や祖先や仏をイメージするのも良い。
私はどちらかというと後者の方にひかれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿