少し古いところでは鎌倉期の藤原定家の『明月記』にも「法論味噌」というのを見つけたし、室町期になると『温故知新書』、『言継卿記』、『七十一番職人歌合』にも見つけたが、いずれにもその内容は記されていなかった。
江戸中期の天野信景による随筆集『塩尻』では「もと南都の製なり」として、既に他国でも造られていることが伺え、元禄期の風俗事典『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』には「扣納豆(たたきなっとう)売り」「法論味噌(ほろみそ)売り」が図解されていた。
『塩尻』に返ると、「興福寺維摩会十月法輪日に講師らは小水のために座をしりぞくことができないのでこれを食べる」とあるのは、水分のないこの味噌で食事をしてから法論の長い行事に臨んだということだろうか。そしてそれは「黒豆豉」とあるので大徳寺納豆(一休寺納豆)のようなものだったのだろうか。
NHK『偉人たちの健康診断』でも「家康の長寿(健康)を支えたのは浜納豆」と強調されていた。
NHK『偉人たちの健康診断』でも「家康の長寿(健康)を支えたのは浜納豆」と強調されていた。
別の史料によると、「今から約六百年前に南都元興寺の護名僧都が造り、強壮食として京都にまで行商された」とあり、「焼きみそを干して細かく刻み、ごま・麻の実・くるみ・さんしょうなどを細かく刻んで混ぜたもの。そのまま食べるほか和え物などにも用いる」「奈良の寺院(興福寺・元興寺・東大寺など)で法論の際に用いられたとされる」とあった。
こうなると、「小水のため」というよりも、長時間緊張を伴う法論会の行事に備えた栄養食だったような気がする。
そういえば、東大寺二月堂横の茶屋の『行法味噌』も同じものを復刻したもののようで、それは一言でいえば上等の舐め味噌・おかず味噌の様らしい。
復刻といえば、伝統の製法を生かして、胡麻、胡桃、麻実、山ごぼう等を配合して現代人の嗜好に適するように改良した『法論味噌』が元興寺にあるらしいとの情報があったので、久しぶりに元興寺に行ってきた。(先日の記事参照)
「田楽にも良く合います」と説明を受けたが、自家製の半白胡瓜で「もろきゅう」にした。
冷奴にも乗せたらこれもいけた。
初夏の香りが広がった。
笑うなかれ。各地の粕漬を「奈良漬」というが如し。
「法論味噌の由来はそもそも」と語るだけで夕餉も華やぐ。
法論味噌を乗せて自慢の白胡瓜
麻の実が口の中でプチンと弾けます。
返信削除写真の法論味噌は、奈良県吉野郡吉野町飯貝の松屋本店製で、少しく詳しい「法論味噌の由来」が入っていて勉強になる。
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