2019年6月11日火曜日

おはらい筋の榎木大明神

 大阪の大川(旧淀川)の天満橋のところに八軒家浜船着場がある。往時、京・伏見から淀川を下って来た三十石船のターミナルであった。(ということは森の石松はここから乗船して京に向かった。それはさておき)
 なので、熊野詣の都人(みやこびと)はここから陸路となる。故に熊野街道の起点でもある。

 都人の中でも後白河法皇や後鳥羽上皇らが熊野詣の前には先導がこの街道をまずお清め・お祓いしたというので、大阪市内あたりではこの熊野街道を『おはらい筋』と言った。(大阪は南北の幹線道路を筋(すじ)と言った。例:御堂筋)
 私は堺の中心街の熊野街道のすぐ近くに住んでいたが、堺では「おはらい筋」とは言っていなかったように思う。

   谷町筋をスケール替りにおはらい筋を語ると八軒家浜がだいたい谷町1丁目、そして谷町6丁目に当たるのが長堀通(大阪では東西の幹線が通り)で、その、熊野街道(おはらい筋)と長堀通の交差するところの熊野街道上に巨木が立ち、下に祠がある。樹齢は約670年。
 祠は榎木大明神というが、樹種は槐(えんじゅ)という。

 秀吉の大大阪城の折りは外堀の中、つまりは城内だったが、今は街のど真ん中に異空間をつくっている。
 どこにもあるような言い伝えながら、何度も伐採の話があったが、その度に当事者に不幸が起こったという。
 よいことでいえば、大阪市内が火の海になった先の大空襲の際には、この大明神の東側一帯だけが類焼を免れたらしい。

 長堀通(南側)からこの木を見ると、ここだけ街道が盛り上がっていて、圧巻の威容を誇っている。
 もし左右のビルがなかったとしたらどんな大木かと想像してほしい。
 樹齢約670年とすると、室町幕府・南北朝の時代だから、この大樹は石山本願寺も秀吉の大阪城も、そして大坂冬の陣も夏の陣も、さらには天下の台所も近代の大大阪も見てきたことになる。
 そんなことを思うと近くの横道を歩くだけでも少しは頭を下げたくなる。

   下闇やおはらい筋の生き証人

6 件のコメント:

  1. 良い事を教えていただきました。直ぐに観に行かせてもらいます。有難う御座いました。

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  2.  傍若無人な都市開発の中で、こういう「樹木&祠」が道路上に残っているのはホッとします。
     ここよりもう少し南に行き谷町7丁目の少し東や東平1丁目には「車道のど真ん中」に同じような「大明神」が鎮座しております。

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  3. 早速、榎大明神の槐の樹齢670年の時間を見に行きました。土の地面は無く、ビルに挟まれ、何処から栄養を吸収しているのか、「手術後」の痛々しい幹でも、「杖」に支えられても、天に突き上げるように先端まで若葉が生き生きと陽に輝いていました。道の南側にはかろうじ建っている黒壁の大阪らしい町家が残る事を願う思いでした。谷町6丁目○○番地の表示がある中で町内会の札には西賑町の名があり米朝落語の「らくだ」の地がこの辺りらしいことを確認しました。日本は街並みも地名も何故大事に出来ないのでしょうか「茹蛙政策」の一つでしょうか。谷町筋に上がる何でもない坂道に「観音坂」と彫られた立派な御影石がありました。

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  4.  7丁目の「クスノキ」の祠のことは昔、父親から聞いたことがあり「巳(みぃ―さん)が祀ったある」と言っていました。何回も移転させようとしたが祟りがあるということでそのままになっているとのことでした。
     その祠は当時よく通った生パスタの店の前にあるのである時、父親の話を思い出し、興味半分で覗いてお賽銭をあげようとしましたが小銭が無く、そのまま立ち去ろうとすると急に強い風が吹きつけました。巳さんが怒ってはるのかと思いパスタ店で両替をし、お賽銭をあげて帰ったことがありました。

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  5.  榎木大明神も巳(みぃーさん)です。「闘う仏教」の佐々井秀嶺師も小さい頃白蛇の生心臓を食べたことや、修行中に蛇の祟りみたいになったことが出てきますから、蛇の信仰は縄文から現代まで絶えることのない信仰です。脱皮=再生=不老を感じ取ったのでしょうね。

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  6.  東平1丁目の末広大明神は無くなったそうです。

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