3月8日に「天皇家は仏教徒であった」という記事をアップした。
実は原稿は5日に書いていた。
そこへ7日に朝日新聞が「オピニオン&フォーラム」で「平成流の象徴天皇」を大きく掲載した。
分量も内容も豊富なのでその解説は省くが、一橋大学渡辺治名誉教授の指摘は鋭かった。幾つかを摘んでみるとそれは・・・、
1 平成の時代には憲法が求める象徴天皇像からの逸脱がさらに進んだ。
2 それは保守政治の側からは侵略や植民地支配への「謝罪」の外国訪問要請だった。
3 天皇自身も「おことば」で平和に触れ、慰霊の旅を始めた。
4 その「おことば」には平和の思いが読み取れたので、昭和の時代にはなかったような、リベラルな言論人も許容し称揚するようになった。
5 また安倍政権の「歯止め」としての期待がうまれ、それが以上のことを助長した。
6 しかし、戦争の責任は国民が主体的に解決するもので、天皇に代行させるべきでない。
7 安倍政権の政治を変えるのは「おことば」ではなく選挙を通じて行うべきだ。
8 なぜ憲法が天皇に一切の政治的行為を禁じたのか改めて考える必要がある。・・・というものだった。
非常に参考になったが考えることも多い。
安倍政権の反動的政治が進む中、天皇が言外に安倍政治に否定的なニュアンスの発言をしたことが何回かあった。
あの場合、リベラルな言論人は「天皇は政治的発言をすべきでない」というべきだったのだろうか。
どちらかというと私は称揚まではしないけれどそれを許容し、対する安倍政治の批判を行ってきた。
実際にはリベラルな人々の多くは、最近の天皇について語るのは称揚になりはせぬかと口をつぐむ傾向にあるのではないか。もっと筆を滑らせるなら、思考停止していないか。
以前にも書いたが日本国憲法は前時代的な天皇制と民主国家という矛盾する制度を孕んでいる。
そのバランスをどうとっていくかが現代人に課せられている。
私はリベラルと言われる人たちが、その在り方等についてもっとフランクに語ってほしいと願っている。
現天皇の平成という30年間が、近現代において初めて戦争をしなかった時代として幕を閉じようとしている。そして、30年間、天皇が一度も靖国神社に行かなかった時代として終ろうとしている。
「それはすばらしいことだった」と、リベラリストは大きな声で言っていいのではないだろうか。
沈丁花その香は分け隔てなく
0 件のコメント:
コメントを投稿