2016年5月25日水曜日

まだ続けるか不倫報道

 朝ドラの森田屋周辺の男どもは昭和11年(1936)、「帝都不祥事件で不景気になり弁当が売れない」とぼやきながら阿部定事件を語っていた。
 深川の人々は「某不祥事件」(二二六事件)をどの程度知っていたのだろうかと興味が湧いた。
 (書店で立ち読みをすると、その日、大橋鎭子は歯磨粉のことで戸山ヶ原の陸軍第一病院に行き、出てきたところで反乱軍と対面しているが、そんな話は朝ドラにはなかった)
 
   さて、「15年戦争と新聞メディア」前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)という論文から当時の状況を拾うと・・・、
 事件は雪の26日未明に発生。
 号外は配達済みだったが、内務省警保局は午前8時過ぎに記事掲載の一切禁止を通告。
 憲兵隊本部も各社幹部を出頭させ、「当局公表以外は絶対に掲載を禁止する。多少でも侵すものは厳罰を以て報いる」と警告。
 東京朝日は夕刊を休刊。
 夕刊で唯一概要を報じた東京夕刊新報は午後4時ごろ発売禁止となりスタンドから押収。
 時事は夕刊トップで「株式取引所の立会休止」を報じて重大事件を暗示。これがやっと。
 27日未明、戒厳令が布かれた。
 こうして、五一五事件では未だ一部新聞が軍部批判やテロ非難を行っていたが、新聞界の言論の自由は、ここで完全にトドメを刺された。(以上、論文から抜粋)

 という新聞界は、一方でその年5月に発生した阿部定事件をどう扱ったかというのを半藤一利氏の本から拾うと、
 社会面トップ五段抜きで「尾久紅燈街に怪奇殺人/旧主人の惨死体に/血字を切刻んで/美人女中姿消す/待合に流連(いつづけ)の果て」が第1回。
 「いづこに彷徨(さまよ)ふ?/妖婦”血文字の定”/情報刻々到り検察陣緊張/紅鐙街の猟奇殺人/巧に捜査網を潜る」が翌日の朝日の四段抜き。

 さらに各社は表現に悩み、朝日は「下腹部を斬りとって・・」(下腹部という表現はこれ以前にはなかった)、毎日は急所と「局部」の間をとって「局所」にした。
 おまけに、それを包んでいたのがハトロン紙だったというので、今度はハトロン紙というのが有名になった。
 さらに、「胸に一物 手に荷物」という言葉が流行ったと・・・・。(以上、著書から抜粋)
 街中は阿部定事件で沸いていた(丸谷才一)ようだ。

 で、昨今のテレビや週刊誌の状況である。
 阿部定の話題に興じているうちに戦時体制がどんどん進行していったように、不倫だ!お泊りだ!という話題に終始している裏で、再び進行している「戦前」がスルーされている。
 直接的圧力のなかった番組スタッフも自粛というか敬遠して安易に流れていることは明らか。
 テレビの状況を見ながら「嫌~な気分」を感じないとしたら、洗脳はほぼ完成している。
 それが「歴史に学ぶ」ということだと考える。

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