2016年5月3日火曜日

半藤さんに学ぶ―歴史は人間学

   今日5月3日は憲法の誕生日。満69歳、数えで古稀。
   3月19日に私は『メディアは戦争に導いた』という記事を書き、半藤一利氏の主張を紹介した。
 重ねて紹介するとその本の書き出しは、「自民党は日本国憲法改正草案を発表した。9条の論外の改悪は断固として許すことはできないが、それに比敵するくらい21条の条文には愕然となった。まさしく怒り心頭に発し、それを報道しただけの新聞に罪はないのに、ビリビリ引き裂いてしまったほどとなった」から始まっていた。

 その記事でも書いたが、半藤一利氏は元文藝春秋編集長としても有名なので、私などは「食わず嫌い」みたいに、メジャーな論壇での保守派の作家というイメージがあったが、先の文章のとおり全く誤解していたのかもしれない。

 その意識が少し変わったのは対談集『昭和史をどう生きたか』(写真は表紙と目次)を読んだときだった。
 戦記などは好きではない私だったが、「指揮官たちは戦後をどう生きたか」で勇者たちを紹介する一方で「責任を感じない人びと」を真正面から批判しているのが驚きだった。だから「歴史とは人間学だとつくづく思えてきます」という言葉もすんなりと共感できた。
 
 ・・・とはいうものの、半藤一利氏のインタビュー記事が先日の赤旗日曜版のトップにあったのには重ねて驚いた。
 日本の多くの良心的な知識人が、保守や革新の区別なく、偏見なく共産党と共鳴する時代がやってきている。小林節氏しかり。・・との感慨を抱いた次第。

 さて、その赤旗の記事で大きな「中見出し」が2面にあり、『戦時中 私も非人間的になっていた』とあって、氏は「歴史の本を書きながら、自分自身の戦争体験は戦後何十年も書いたり話したりしませんでした」として「空襲で逃げるとき、川の中で人を蹴飛ばしたり、はねのけたりしました」と・・・、
 
 先の対談集では、氏は東京大空襲の経験を語り、「小さい子連れのお母さんは飛びこむ元気がないから、水を被って川の縁に並んでました。そして火がかかってきた瞬間に、紙屑みたいに髪や洋服がバーンと燃え上がって、あっという間に窒息死です。その上を火がダーッと舐めていくのを私たちは川の中から眺めているほかなかった」
 「じつは川の中の自分も危なかった。泳げない人が、私の手に掴まる、足にも掴まる。一緒になって浮いたり沈んだりしてる間に・・ひょいと助けあげられました」
 吉村「僕の方は、隅田川の上から流れてきた死体を見たわけです。七八十体あったかな、みんな焼けてなくて、女の人の着物も綺麗でしたよ。・・・見ているけれど、しばらくすると皆飽いたように行ってしまう。何かもう無感覚なんですね」
 半藤「あの、人間が無感覚になる時は、おっかないですね。真っ黒焦げの死体がいくつも転がっている傍らで焚き火をして、服を乾かして気にも留めないんですから」
 吉村「ああ、そういうものですね」

 これを読んだとき、戦争中の体験を語るというのはとても酷(ムゴ)いことで難しいことだと私は思った。
 よく「歴史を語りつごう」と言われたりするが、極限状態の話は辛いことでそんなに簡単なことではない。
 別の本かなんかで、「あの戦争で全くの善人は死んでしまったから、我々は多かれ少なかれ悪人の子孫だ」と読んだことがある。五木寛之氏の言葉だったか(2015年12月9日「五木寛之の共犯意識」など。幻冬舎新書「異端の人間学」ほか)。
 嫌な言葉ではあるが、蓋をして飾ってはいけないものがある。

 普通の良識的な市民が、もっとはっきり言えば父が祖父が伯父さんが、目の前で同僚(戦友)が殺されたとき、「こんちくしょう」と思って「復讐」したことだろう。
 支給されたゲートル1枚を盗まれた市民(兵隊)は文句なく誰かのものを盗んで員数を合せたし、最後の引揚船に乗れるか乗れないかのときには押しのけて乗船出来たものだけが生き残ったのだ。それが真の昭和史なのだ。
 そう考えると、ISなどの自爆テロも「ああ、彼の地の今はカミカゼの時代なのだなあ」と理解できる。
 西欧では自爆テロのことをごく普通に「カミカゼ」と報じている。
  
 半藤一利氏は『B面 昭和史 1926-1945』を出版されたらしい。
 憲法記念日にあたって、各自が昭和史を自分の言葉で語ることの大切さをいま思っている。

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