2016年5月16日月曜日

大型の円形周溝墓をみる

写真の後方(西側)は畝傍山
   先日来から体調を崩しているが、これだけは見ておきたいと思ったので、藤原京右京九条二・三坊、瀬田遺跡現地説明会に行ってきた。
 場所は藤原京・本薬師寺跡の少し南。

 遺跡は、上から順に、藤原京の塀、側溝、建物。
 藤原京以前の建物。
 さらにそれ以前の建物。
 そして、弥生時代終末期の周溝墓が検出されていた。

 その周溝墓だが、方形周溝墓が二つ、円形周溝墓が一つで、円形周溝墓がまるでこのための発掘であったかのように、たまたま発掘対象であった今回の職業訓練校建設現場の真ん中に座っていた。

   墓本体のマウンドは藤原京造営時あるいはそれ以前に削られていたが、直径18~19mの円墳のようなマウンドが幅6mぐらいの溝で隔され、墓への出入りあるいは行事のための陸橋が造られていた。
 この陸橋が後の前方後円墳の「前方」と考えられるという説は肯ける。

 出土した土器は庄内式(2世紀後半~3世紀中葉まで)で、弥生の最後、古墳時代の直前だから、この陸橋付きの円形周溝墓(写真右上)が大きくなって纏向型大型墳丘墓(写真の下)となり、さらに直後には箸墓古墳等の隔絶した巨大前方後円墳に発展したことは私には容易に想像がつく。

 環濠集落に代表されるような弥生の群雄割拠の時代が終わり、大王の時代の足音が聞こえてきた時代。
 因みに卑弥呼の最初の魏への遣使は239年だから、先立つことおよそ数十年と言ったところだろうか。
 ここは畿内、北東には纏向、南東には飛鳥という地だ。
 私には陸橋から墳墓を見たときの背景に耳成山が想像できた(今は建物で遮られているが)。
 
 これまで「前方後円墳は近畿で誕生したが、前方後円墳を構成する要素は近畿の弥生墓制を基にした発展形ではなかった。・・・墳丘の可視的部分でいえば、ほとんど近畿以外の外部的要素から造られていた」(吉村武彦著「ヤマト王権」に引用されている北條芳隆著「前方後円墳と倭王権」)とされていた「定説」は大きく再検討されなければならなくはないか。
 まだまだ材料が少ないので何とも言えないが、ここで見たこの景色だけは覚えておこうとワクワクしながら思った。

3 件のコメント:

  1. 日曜朝の4ch「サンデーモーニング」で放送終了直前に岸井さんが「前方後円墳の原型では」と興奮気味に喋っていましたがこの事ですか?

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  2.  掲載した下の写真の中の下の図が巻向型墳丘墓で、これが前方後円墳の原型だと思います。
     今回の円形周溝墓は同図の右上の青色ので、巻向型の一歩手前だと想像できます。
     これまでは近畿にはないと思われていて、それが邪馬台国九州説のひとつの論拠にもなっていました。
     なので、今回の発見は大きな意味を持っているように思います。
     弥生の後期、ヤマトは豪族ネットワークのいわば首都になりつつあっていて、各地の豪族が各地の文化を持って集まっていたのではないでしょうか。

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  3.  弥生時代の後半1世紀末段階の日本列島の先進地域は北部九州でした。
     そして、ヤマトに巨大前方後円墳が出現したのが3世紀中葉過ぎで、この時代の先進地域は此処でしたし、此処で古代国家が誕生しました。
     だとすると、九州が東遷してヤマトにたどりついたのか、ヤマトで発達した首長連合が九州を破ったのか、はたまたそれ以外…。
     ということを、考古学で考えるというのが楽しいところです。
     今回の円形周溝墓は貴重な材料です。
     この記事の面白さを少しでも想像していただければ幸いです。

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