暦の七十二候では、立夏の初候は「蛙始めて鳴く」で、新暦の5月5日~9日頃。
特養に入所している義母に食事介助をしながら、「こどもの日のちらし寿司は美味しかった?」と尋ねると、「美味しかった」と答えただけだったが・・・、尋ねるともなく「もう田植えやねえ」と呟くと、「田植えはしんどい」「田植えは難しい」と言って、田植えのしぐさをしてくれた。
やっぱり義母の記憶の中の原風景は米作りなのだと改めて感心した。
半分眠ったように食事をしていたさっきまでとは違って、田植えの話は自分から話そうとしてくれた。
なので楽しくなって、「おばあちゃんは食用ガエルは食べた?」と振ってみると、「食べてない」とこれは空振りだったが、あとは勝手に、「蛙は田圃にいっぱい居った」「捕ったらお尻に麦わらを刺しまんねん」「ぷーと吹いたらこんなに膨れまんねん」「それを手のひらに乗せてパーンと叩きますねん」とジェスチャー付きで話してくれた。
「蛙は死にますねん」「それだけのことですねん」。
男兄弟ばかりの中の紅一点だから、遊びもこんなだったようだ。
こうして、蛙とりの思い出話は義母にぐぐぐーっとエネルギーを与えてくれたように私には見えた。
この話の最中、顔つきがイキイキしていたから。
さて、中国の神話では月に兎ではなく蛙がいるという。
その神話の基になった発想はというと、満ち欠けを繰り返す月、冬眠を繰り返す蛙・・に、生命の再生=不老不死を重ねたのだろう。
蛙の思い出話には、だからエネルギーが湧いてきたのだと想像したりする。
5月5日の特養の昼食はちらし寿司(流動食等ではない普通のちらし寿司)だったそうで、それを「美味しそうに完食されましたよ」とスタッフから聞きました。明日は母の日です。
返信削除かえるのおなかをふくらますって、物語だけでなかったんですね!子どもらしい残虐体験も大事なことだと思います。
返信削除小学校の通学路は畑、田んぼの中の道を通った。畑の端っこには「肥え溜め」(こえだめ)があり、その横には用水池があった。「肥え溜め」に落ちた子供は名前を変えなければならないとか、用水池に棲む大きな「しょっくん」(食用ガエル)を殺したら罰が当たるとか、そんなたわいもない事を喋りながら通ったものです。
返信削除そんな通学路の横を流れる小川で近所の兄ちゃんが大きな鯉を捕まえたと云うので家まで見に行った。実際の大きさは40センチぐらいであったろうか、でも大きな盥に入れられゆっくり呼吸をしている鯉は子供の目には1メートル以上もあるように感じられ、その兄ちゃんは英雄のように見えた。
私の好きな『虫捕る子だけが生き残る』という本には、「(昆虫採集の)虫が可哀想という人間に限って(環境破壊による)絶滅に無関心」とか「虫も殺さぬ人間が(戦争で)人を殺す」というくだりがあります。
返信削除虫や小動物を捕りもしない殺しもしない現代っ子は可哀想です。
孫の夏ちゃんに曾おばあちゃんの蛙の話をパチーンと叩いて殺すところまでしたら、「私もした~い」と即答しました。
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