日本の国旗損壊処罰法案について、参院内閣委員会は14日、参考人から意見を聴取したが、その中で、中央大学法学部の橋本基弘教授(憲法)(副学長)は、「近代国家のイロハのイとも言える罪刑法定主義を全く満たしていない」と指摘した。
法案が「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法」で「公然と国旗を損壊」した場合を処罰対象としている点について、極めて主観的であいまいだとし、「後出しジャンケン的な解釈による適用を許すような刑罰法規は、法の支配の否定を意味する」との見解を示した。
また、国旗は国家の象徴であり、それを損壊する行為は「国家への最も強力な抗議のメッセージ」の手段になるとし、これらの行為を処罰することは「国家や政府に対する最も強力な批判を禁止することを意味する」と訴えた。
私が遅まきながら「なるほど」と気がつき、もっと早く気がつくべきだったと反省したのはこの最後段の指摘である。仮にも『国旗を焼く意図』というのがあったとして、それは政府に対する批判であり、民主主義にとってみると根幹的な表現の自由である。
政府・政策を批判するのが表現の自由の主目的であるから、それを容認しないのは独裁国家である。「国旗毀損」と言いながら、結局は政府批判を取り締まるという危険性の方が遥かに大きい。
ちなみに1989年 米国最高裁判事 アンソニー・ケネディの言らしいが、「国旗が守っている自由の中には、その国旗を軽蔑する自由も含まれている。」というのにはアメリカの民主主義の根性を感じる。
付言すると、スポーツの国際大会等で日の丸が掲揚されるのに嫌悪する人は少ないとは思うが、同時に、人の感情はそれほど単純ではないということも理解しておくことが「大人」の理性である。
例えば、夏の夜の花火は一般的には美しく好ましい。しかし、東京大空襲を経験された半藤一利さん、その妻で漱石の孫でもあって長岡大空襲を経験された半藤茉莉子さんは「花火は嫌いだ」と綴っておられる。
この法案は、例えてみれば、「みんな花火は美しいと言っているのだから花火は嫌いだなどと言うな」に通じる。
国の権力者であっても、象徴であっても、国歌や国旗であっても、それを軽蔑したり毀損する自由こそもっとも大切な、根幹的な表現の自由なのだ。

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