2026年7月7日火曜日

大和岩雄の著作

    先に「黒塚古墳の被葬者は誰か」という記事を書いたが、そもそもクニや大王の誕生、古墳時代の始まりは何時なのかということについて、どうしても頭の整理が追いつかなくもやもやしていた。
 言葉を変えていうと、「ヤマト王権の誕生」であり、卑弥呼の女王国との関係でもある。
 そのため、纏向遺跡の寺沢薫氏の分厚い本を読みなおしている中に、大和岩雄氏の見解などが相当論理的に参照されているのを知って、購入して読み進めたのが大和岩雄著『箸墓は卑弥呼の墓か』。
 古代史の本の中には全く論理的でない本も少なくないので、著者を選んで購入することにしているが、その中に加えたわけである。
 その内容をブログ記事に要約することなどできないが、自分自身の頭の整理のために、特に問題意識を持った個所を下記のとおりメモにした。今後その内容を深めていきたい。

 🔳 箸墓古墳築造時期は3世紀後半である。3世紀中葉すぎではない。
 卑弥呼の死は248年頃で、帯方郡の張政が248年から3年程いた間(3世紀中葉)に卑弥呼の死、墓の築造、男王即位、倭国の乱、台与の擁立、国中定まる、・・を見届けているから、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
 卑弥呼の墓は北部九州の急造・粗製の円墳である。箸墓は前方後円墳。
 卑弥呼やその前の時代は都市国家(クニ)がそれぞれ北部九州、吉備、大和、尾張などのブロックを作っていて、それらを線で結んだ「交易組合」的な連携を図っていた。それが倭。
 57年の金印~107年倭国王帥升の頃までは北部九州+吉備がそれ。
 3世紀に北部九州の首長連合の代表が倭国王になる力が弱まり、だからといって吉備や大和の首長にそれほどの力がないため、卑弥呼が「共立」された。『女王国』の都は北部九州にあった。
 卑弥呼の死後男王が立ったが国中乱れ、台与が共立されたのが3世紀後半。その折に交易組合的連合の中で大和(纏向)に遷都された。それが台与の『邪馬台国』。
 台与の聖俗分離の政権で俗政を担当していた男子が、台与の死後台与の担っていた聖政を継続するために、箸墓古墳を築造した。築造したのは崇神天皇。被葬者は台与だが、叔母のヤマトトトヒモモソヒメと書紀に記録。ヤマト王権のスタート。🔳 さて、どうだろう。
 

 

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