2022年9月4日日曜日

新野 新さん達の置土産

   友人のTさんから『歌謡浪曲 大阪大空襲』なるレコードを聞かせて頂いた。
   その内容等については、彼がFBに投稿されていた文を転載して紹介する。

 🔳敗戦から77年目の夏、戦争を体験された方の高齢化に伴って「戦争体験の継承」が大きな課題となっていることがマスコミの報道でも指摘されています。先日投稿した京橋駅空襲被災者慰霊祭の時にも、遺族代表の方が語り継いでいくことの大切さを訴えておられました。

 そんな折、ヤフオクに『歌謡浪曲 大阪大空襲』と題するLPレコードが出品されていて、どんな内容だろうと入札したら、他に応札者がおらず難なく落札。届いたLPの「作者のことば」を見て驚きました。放送作家などいくつもの肩書を持つ新野新さんがこの浪曲を書いていたのです。新野新といえば、若き頃の笑福亭鶴瓶とともに『ぬかるみの世界』という深夜ラジオの番組で、グダグダととりとめのない話をしていた人という印象が残っていたので意外でした。その新野新さんも、少年時代に大阪の空襲を体験されたそうで、その体験に加えて「大阪大空襲体験を語る会」から出された『大阪空襲体験記』の行間からあふれ出る空襲体験者のうめき声に揺り動かされてこの浪曲を書きあげた、と語っています(作者のことば)。

 さて、浪曲のレコードに針を落とすのは初めてでしたが、富士月の栄さんの熱演に圧倒されました。夫の出征から始まって、長男の学童疎開、3月13日と6月1日の大空襲から背負い子(長女)の死と、妻、姑、長男など5人の声色を使い分け、情感を込めた熱唱と語りに思わず姿勢を正すこともありました。何よりも、なにわ言葉を安心して聞くことができました。熱唱は「あの日あの時幾百万の 涙と血潮を乗り越えて 築いた日本の平和なら 無駄にすまいぞ此の犠牲 忘れちゃならないあの悲劇 語り伝えて何時迄も 涙で偲ぶ大空襲 あゝ大阪の大空襲」と締めくくられます。作者のことばも最後に「祖父か祖母か、又父か母が買ったこの1枚の浪曲のレコードを、或る日、戦争を知らない子供や孫がふと聞いてくれたら…これは作者のひそやかな、そして最大の希いなのである」と記しています。戦争体験の継承と浪曲とがなかなか結び付きませんでしたが、こんな伝え方もあるんだ!…と、改めて伝え続けていくことの大切さに思いを致した45分間でした🔳 (以上、TさんのFB)

 再生する前「もっと素人っぽいもの」かと想像したのが申し訳ない、ホンモノの芸だったので感動した。
 
 さて、私は戦後第1期生である。就職したての頃は数歳違うだけで回りはみんな戦争体験者であった。一番近い人は「逃げ回っているとき炎が綺麗かった」と言っていた。
 そして私は疎開先の借家で生まれたのだが、家は天王寺区の東高津宮近く、店はせんば淡路町だったから、この浪曲通り丸焼けになっていた。
 後に母親は「上本町から西を見たら一面焼け野原だった」と私に語っていた。

 戦後、多くの映画が、そして初期のテレビも、コメディも含めて戦争や軍隊の不条理を取り上げていた。それが昨今では、軍事負倍増、予算事項要求、敵中枢部先制攻撃能力というような言葉が軽々と語られるようになっている。

 あまり情緒的に語るのは不得手であるが、情緒的に納得した記憶は残るということもある。「メッセージの伝え方」をもっともっと考え抜く必要がありそうだ。

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