2022年9月21日水曜日

国葬について

   何年か前、退職者会の行事で大阪市西区の歴史ある川口基督教会を訪れた。
 ここは聖公会(英国国教会が母体)の教会で、当然話題は16世紀ヘンリー8世にまでタイムスリップした。
 エリザベス女王の国葬にあたって、そんなことを懐かしく思い出した。

 つまり、女王は英国国教会の最高権威者、信仰の擁護者だったのである(亡くなったので過去形にしただけ)。
 良し悪しは別にして、英国の現状ではこのように国教会と王室と国(政治)は多々結びついている。

 なので、女王の国葬は文字どおり葬儀だということを再確認した次第。
 翻ってわが国で議論されている元首相の「国葬」なるものは、葬儀後の法事というか偲ぶ会のようなもので、あまり英国のニュースを見てイメージを独り歩きさせない方がよいということを思った(いろんな意味で)。

 以上が前説(まえせつ)となる。その感覚を押さえたうえで元首相の国葬問題を考えた場合、フェイスブック上に開陳されていた小林節教授の意見が私には非常に参考になった。
 よって以下にご紹介しておきたい。
 
🔳 「葬式は静かに送る礼節を」という誤解 国葬=国の追悼式に反対なのだ
  公開日:2022/09/18 06:00 更新日:2022/09/18 06:00 
   小林節慶応大名誉教授(C)日刊ゲンダイ🔳
 
🔳「安倍国葬」の是非の論争に憲法学者として、やむを得ず参加してきたが、最近、「他者の葬式くらい静かに見送るのが礼節ではないか」という批判に何回か遭遇した。
 しかし、それは誤解か筋違いである。
 
 安倍元首相が78日に奈良県内で応援演説中に暗殺された4日後の12日に、故・安倍晋三氏の葬式は東京・芝の増上寺(徳川家の菩提所)で盛大に執り行われた。その際には、報道で知る限りだが、日本国民は安倍政治に対する賛否にかかわらず、皆、静かに見送った。私自身もそうである。
 
 その後、国論を二分する騒ぎになったのは、714日に岸田首相が「国葬」を今秋に行うと表明してからである。

「国葬」とは、日本国が主催する最上位の「追悼式」で、歴史的にもめったにあることではない。国の意思により、国の経費負担で行う「国の公式行事」である。
 
 国の行事である以上、主権者国民の直接代表で「国権の最高機関」(憲法41条)である国会の意思表示(法律か決議)と、日本国の財政処分権を有する(憲法83条)国会の承認が不可欠なはずである。
 
 にもかかわらず、岸田政権は、なぜか頑なに国会審議を回避して、閣議決定だけで国葬を強行しようとしている。そこに主権者国民の世論が反発して、「安倍国葬」に反対する政治運動が盛り上がってしまったのである。
 
 言うまでもないことではあるが、政権側が頑として理解を拒むので改めて言っておくが、国葬という公的行事には法的条件と政治的条件が必要である。法的には国会の意思の証し(法律か決議)が不可欠である。さらに、政治的にはその故人を国葬で遇することについての国民的合意の存在である。これらがないのに、国としてしめやかに故人を追悼する空気は醸成されようもない。
 
 今回、岸田政権は、なぜか法的条件を回避しようとした結果、政治的条件まで自ら壊してしまった。愚かとしか言いようがない。これでは故・安倍元首相に対して失礼であろう。今、主権者国民の多数は安倍氏の葬式に反対しているのではない。私たちは「国事」としての国葬に反対しているだけである。🔳

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