2021年5月16日日曜日

感動するの?

   作家の平野 啓一郎氏がフェイスブックに書かれた次の投稿にいろいろ考えさせられた。

 曰く『僕は東京五輪反対だが、「感動」と言ってる人は、この状況で日本人選手が勝っても負けても、「感動」なんかするんだろうか? 国内の状況だけでなく、各国の状況を考えると、あまりにも複雑で、比較的恵まれた環境で練習できた国の選手が、練習できなかった国の選手に勝って、……どうなん?』と。

 話はスポーツや歌や芸術の話だが、人の情感に訴えるジャンルに私のような一般庶民はどう反応すべきなのだろうか。例えば、私などはいわゆるフォーク世代だが、フォークというかそれを継いだようなニューミュージックのシンガーソングライターの歌に、作者や歌手の発言や態度は好きではないが歌には心が反応するということがある。もっと言えば、フォークよりもさらに前にはうたごえの時代があったが、スターリン時代のロシアの歌にも、金日成時代の平壌を歌ったような朝鮮の歌にも心を打つものがあった。つまり、ともすれば歌の美しさゆえに歌手や背景さえも美しく感じてしまう怖さのことである。

 4月26日のこのブログ記事に書いたことだが、朝日歌壇の入選短歌をひいて私は、オリンピック予定選手たちや政権周辺の人々が、「オリンピックで感動を与えたい」という発言に如何ともしがたい嘘くささを感じている。一人ひとりの選手が高みを目指す努力の美しさにかこつけて、あえていうが嘘と金にまみれたオリンピックを粉飾しているように思ってならない。

 そこで平野氏のFBである。コロナに掛かっても入院できない、自宅待機中に亡くなった人も少なからずいる。この夏東京に来れる人といえば、いわゆる先進国の人、あるいはスポーツエリートたちだろう。その状況を「感動の祭典」と感じる精神には何かが欠けていないか。

 子曰く「巧言令色鮮し仁」。こんなオリンピックよりも、考えられる全ての力を結集してコロナを抑え込むことの方が感動的なことではないのか。

 補足的にいえば、一部の東京オリンピック反対論者が池江里佳子選手のSNSに「出場を辞退して」と書き込んだことを大きく情緒的に「酷い」という反論キャンペーンが進められている。それとこれとは別だと言っても見事な揚げ足取りに利用されている。こんな時だからこそ、情緒的な発言には冷静に思考する必要がある。

2 件のコメント:

  1. 開催について、賛成、反対の様々な意見があると思いますし、正直に言うと、どちらも一理あるような気がしますが、、、
    「本当に心から楽しむ気になれるのですか?」と思います。素直にそう思います。

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  2.  ひげ親父さん、当初私はオリンピックを頭から否定はしませんでした。しかしこの頃、これがフェアプレイ精神か? スポーツマンシップか? と腹が立ってきています。「アスリートの気持ち」というような情緒的な言葉に流れる危険性さえ感じます。もういいのではないでしょうか。

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