それに氏の話は、ユーラシア全般にわたる言語、歴史、考古学、民俗学、文化史等々に及び興味は広がる一方だった。現代風にいえば学際的な博識と緻密な論の詰め方も魅力的だった。ただ、タミル語(南インド)世界と日本人・日本文化の親近性については何となく無理がある感じがしたまま、次の展開はどうか?とよく似た本を探し続けてきた。
そんな気分の続きで、先日書店で田中克彦著『ことばは国家を超える』(ちくま新書)という本を買って来た。選んだ理由には、私の西域、ユーラシアへの興味とも重なったからかもしれない。
さて日本語の起源というとダーウィンの進化論のイメージが湧いてくる。数少ない生物から複雑で高等な生物が順々に枝分かれしていったというあれである。掲げた『ウラル・アルタイ語共通基語』(ソ連のアルタイ学者バスカコフ作)はそういうイメージに近いかもしれない。しかし著者は「それは意味がない」と大野晋先生をはじめとする「音韻法則に幻惑された日本言語学の科学主義」を一刀両断の下斬り捨てている。
例えば定説のように広まっている印欧祖語(進化論の樹でいえば根っこ)についても、後にモスクワ大学総長になったトルベツコーイの論などをひいて、現実的存在としては考えにくく、印欧語成立のはじめの段階ではいくつもの消滅した未知の言語があった。それが相互に接触しながら印欧語(主としてヨーロッパの言語)ができていったと・・・
ということで私の中の既成概念が殴打され、次々に提起されている新しい視角をワクワクしながら読み進んでいる。この本は私に買われるように書店に並んでいたのであった。(行きつけの書店はコロナ閉店中)【明日につづく】
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