言語には大きくは3つの型がある。屈折型、膠着型、孤立型で、屈折型とは例えば単数と複数や形容詞と名詞が、あるいは過去形などが manーmen、foodーfeed、のように中の母音などを入れ替える(というように屈折させる)印欧語など。
膠着型は日本語のように複数を表す場合は「タチ、ラ、ドモ」などを語尾にくっつける(ニカワ(膠)でくっつける)というようなウラル・アルタイ語。
孤立語は文法専門の言葉がなく文字の位置でそれを示す、典型的には中国語。(以上のコメントは非常に粗っぽいコメントであることを付記しておく)
そして少なくないヨーロッパの学者たちは、東洋に比べて西洋が進んだのは屈折型の言語が優れているからで、膠着型や孤立型の遅れた言語は遅れた思考・思想・文化を生むと主張した。あるいは孤立語や膠着語は屈折語に進化するだろうと。
しかし著者は多くの論をひいて、屈折語の屈折(文法)には多数の例外があり、孤立語は文法上は舌足らずで、それに比して膠着語の文法の変化は規則的だと指摘し、ロシア語の文法の一部などでは屈折語が膠着語的な変化を示していて、孤立語も例えば中華的〇〇の「的」のような膠着語的な文字が生まれつつあることを指摘している。
よく本やメディアなどで、「日本語は最後まで聞かないと賛成か反対かもわからない。それに比べると英語は・・」などと日本語(膠着語)が劣った言語であるかのような指摘を見たりしたことがあるが、「印欧語はアルタイ型膠着語の技術的完成度にはまだ遠いものがある」との指摘には、少し国粋的感情で溜飲が下がった。【後編へとつづく】
【後編】その昔読んだ本では「日本語はウラル・アルタイ語ではない、世界でたった一つだけの例外的な言語」というのもあった。確かに非常に近接しているアイヌ語、朝鮮語、モンゴル語、そして中国語ともいろいろ近い部分もありながらたくさんの相違点があったことは事実である。しかし今考えると、脱亜入欧した日本の言葉が、「あんな奴らと一緒(親戚)にされてたまるか」という民族感情と表裏になっていなかっただろうかと思う。
脳の中での思考は基本的には母語で行なわれる。そして母語には風土や歴史に培われた文化がくっついている。反語的にいえば、同じような言葉をしゃべり、よく似た感情を共有するものが民族というひとつの概念かもしれない。
『ことばは国家を超える』の田中克彦氏は「言葉とアイデンティティー」の章で、2020年夏に中国当局が、内モンゴルの小中学校でモンゴル語を教えるのを禁じたことを告発されている。皮肉かもしれないが「中国ではおそらく、ウイグル語やモンゴル語のような非文明語は、(いずれもアルタイ語だ)ウイグル人、モンゴル人本人にとっても迷惑な言語だから、なるべく早く、こんな劣った言語はやめて漢語(シナ語)に入れ替えた方が本人たちの幸せになるのだという信念があるのかもしれない」と、そしてこの考え方はフランス革命時のフランスにもあったし、チョムスキーの言語観とも食い違っていないとも。
一国内の少数民族ではなく国境を越えた民族には、スペインとフランスに分断されたバスク人、イラン、イラク、トルコ、シリア、アルメニア、アゼルバイジャンの6カ国に分断されているクルド人、モンゴル、中国、ロシアに分散するモンゴル人、そしてウイグル人や中央アジアの民族の中にはそういう民族も少なくない。ソ連時代にはチュルク諸語のローマ字化が進んだが、2002年プーチンは法令でもって「ロシア連邦の諸民族の言語はキリル文字を基礎にしなければならない」と命じた。
国家、国境という魔物は言語のジェノサイドを現に進行させている。言語学の本を買ったつもりが世界の見え方まで変わってきた。(これは決して書評ではなく、この本を読むうちにいろいろ考えさせられた雑文である。)【一応おわり】
日本語には、漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字の4種類の文字表記があります。4種類もの表記法を持つ言語は日本語ともう一つくらいしかないと聞いたことがあります。河野六郎『文字論』は専門書ですが、文字から見た言語を専門に取り扱っていて面白いです。文字のない言語もあり、減に取って文字が必須というわけではありません。川田順造『無文字社会の歴史』は感銘深い著作でした。
返信削除文字でいえばハングルが最も合理的でしょう。表意文字たる漢字を使いつつ日本語用ハングルを作れば合理的な文字文化が作れそうですが、そうなると一部の学者以外古典が読めなくなりそうです。😂mykazek さんコメントありがとうございました。
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