(1)こういう場面で思うのだが、諸行は無常だが児の声は未来の保証だ。
大人たちがいくらカッコをつけても、児の元気な声以上の送る言葉は出てこない。
ちなみに追悼歌は万葉集の時代は挽歌と言われていた?らしいが、その語源は柩を挽く際に詠われたからという。
たいくつと折り紙で作ったバラの花 ひい祖母ちゃんの上に飾りぬ
(2)長い職業生活ではふと”そんな目”で周りを見てしまうことがある。
”そんな目”で、義母と別れてから頭に思い浮かんだ実につまらぬことがある。
こういう思考回路は職業病と言えないだろうか。実につまらぬことなのだが。
目前の炉の建設工事は3506 労災保険率適用細目
(3)老人ホームでお世話になった方々全員にお礼を言いたいが、交代制のためそれは不可能。
で、ほんとうに形ばかりのお菓子にメッセージを付けてお配りしたいが、いったい何がいいだろうか。主はメッセージ。
「どこそこのクッキーは評判がいい」などと娘と言い合っていたが、念のためとネットを開けると、あるはあるはプチギフト。
およそ人の考えそうなことはほとんど商業ベースで捕獲されていて、その抜け目のなさにただただ感心。こちらが遅れていただけ。
ここは一応「さすが便利だ」と誉めておこう、ネットショップのプチギフト。
人の考えは把握済み ネットショップは何でもござれ
9日の朝、私の頭の上で鵙が高鳴きをした。人間は残暑だなんだと言うが、鵙は秋は秋と告げている。
返信削除この世は観念の上にあり、心の持ちようでいろんな解釈ができるという観念論があるが、生物の脳(観念)が終了しても、夏の次には秋が来て鵙が高鳴きをするのだ。事実、子や孫やひ孫は今日も生きている。その光景は未来もそうだろう。そういうリアルな分析方法を唯物論というのであって、唯物論が意識等の上部構造を軽視しているわけではない。そんなことをふと考えた。