2019年9月1日日曜日

関東大震災の砂けぶり

 大正12年(192391日、私の母は堺でも「揺れた」と生前に語っていた。
 私は「まさか」と思っていたが東北地震の経験の後それを信じるようになった。

 その、96年前の関東大震災の中、朝鮮人や中国人が、住民の「自警団」や軍、警察によって殺害された。
その追悼式に、小池百合子・東京都知事は今年も追悼文を送らないと表明した。
 その式典には歴代知事がメッセージを寄せてきたし、小池知事も就任直後の2016年には前例にならったが、翌年から取りやめた。
 きっかけは、追悼碑の説明文にある「六千余名」という犠牲者数は過大だという自民都議の質問だった。自警団の行動は震災に乗じて凶悪事件を起こした朝鮮人らへの自衛措置だったとも。
 それを受けて小池知事は、虐殺について「様々な見方がある」「歴史家がひもとくもの」とあいまいな言い方で追認した。
 しかし、流言蜚語によって民族的な差別意識を増幅させた市民が、何の罪もない人々を殺傷したというのが、事件の本質である。

 そしてこういう日本の負の歴史について、研究の蓄積を無視した主張を言い募り、あるいは一部に疑問を投げかけて、諸説があるかのような空気をつくり出し、公的な場から消し去ろうとする「歴史修正主義」の動きが近年相次ぐ。
 東京では来年、あらゆる差別を禁じる憲章の下、五輪・パラリンピックが開かれる。
その都市のトップが、ヘイトクライムの過去に真摯(しんし)に向き合おうとしない。日本のみならず世界の心ある人々が知れば、幻滅し、その資質を疑うだろう。
以上は829日付け朝日新聞の社説の要旨であり、私はその主張に同意する。

 ここで2017420日にこのブログに書いたことの一部を再録する。
敗戦時、その存続が危ぶまれた大学が二つあった。神道を教学の柱としていた伊勢の神宮皇学館大学と国学院大学である。
 その危急存亡の秋に国学院大学の宗教研究室の主任教授になったのが折口信夫(おりくち しのぶ)で、学者であるとともに歌人でもあり詩人でもあった。
 はたして、日本会議周辺の神社本庁や神道政治連盟の人々はこの大先達のことをお知りだろうか。
 そして、関東大震災の翌年に折口が発表した詩「砂けぶり二」をご存知なのだろうか。

 少しく長いので一部のみ紹介すると、折口は、
  夜(ヨル)になったー。
 また 蝋燭と流言の夜(ヨル)だ  ・・と、詠い。
 かはゆい子どもがー
  大道で しばって居たっけ
  あの音ー
     帰順民のむくろのー。   ・・と、詠い。
  (初出では)
  おん身らは、誰を殺したと思ふ
  陛下のみ名においてー。
  おそろしい咒文だ。
  陛下万歳 ばあんざあい  ・・と関東大震災時の朝鮮人等虐殺を告発していた。

 関連して折口はこうも言っていた。
 ・・・大正12年の地震の時、9月4日の夕方ここを通って、私は下谷・根津の方へむかった。自警団と称する団体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり囲んだ。その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思ってゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切ってしまふ。あの時代に値(ア)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出来なくなってしまったと。

『吾輩は猫である』のなかで漱石は、「凡ての大事件の前には必ず小事件が起こるものだ。大事件のみを述べて、小事件を逸するのは古来から歴史家の常に陥る幣竇(へいとう:欠陥)である」と語っている。
慰安婦、徴用工、南京虐殺、そして関東大震災時の虐殺。
松井大阪市長、河村名古屋市長、小池東京都知事らの発言を見過ごしていては、モノ言えぬようになったときの大事件の折に悔やんでも仕方がない。

  秋雨や線上降水帯と名を変えて

2 件のコメント:

  1. 折口信夫については、はじめて知りました。

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  2.  折口信夫(おりくち しのぶ)は、明治10年大阪に生まれた古代学の泰斗(学者)であり詩人です。
     その守備範囲は、神に始まり、天皇、万葉集、芸能、各種民俗に及びます。
     後の神社界、神道界の人々はこの大先輩の意見に耳を傾けるべきです。
     近頃、保守を称される方々と共産党が共同・共闘する場面が多々ありますが、私は納得しています。折口信夫を基準にすれば、現代の右翼という人々は保守にも当たらないでしょう。

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