要旨を勉強会で学んだ章もあるが勉強会に欠席した章もある。
そんな欠席した章の一つが『古代国家と対馬』でそこなどは興味深く読んだ。
そもそもだが、釜山から50キロ、壱岐にも50キロ、博多までなら140キロという地勢上の位置にあって、ほぼ一貫して「日本国」であったことが不思議な気がしている。
昔の記憶だが司馬遼太郎が、中華民族の興味は一貫して大陸にあり海の方には興味がなかったというような文を読んだ気がするが、朝鮮半島を含めて大陸の民族にはそういう傾向があったのだろうか。
斉明5年(660)に唐・新羅軍によって百済が倒され、百済再興をかけた倭・百済連合軍は白村江で惨敗したが、それでも対馬は倭(日本)国のままだった。この辺は掘り下げて知りたいところだ。
魏志倭人伝でも「良田無く」と記されたほどだから、占領するよりも、日本の窓口、交易の窓口にしておくメリットの方が大きかったのだろうか。
おかげで、対馬を経由して大陸の文物が倭(日本)に伝わったのであるから、小笠原先生は、「歴史に仮定はないが、もし対馬が朝鮮民族の土地であったならば、原始・古代の日本社会の発展は著しく遅れたと考えてみる必要もある」とコメントされている。
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