また奈良県周辺に住んでいると、いきおい平城京、東大寺大仏、正倉院御物など華やかなイメージが先行し、先進文化の源流である唐のイメージも同様の傾向がするが、はてさて・・・
大唐の隆盛は周辺諸国から見ると国家滅亡の危機でもあり、事実、663年に百済が滅び、668年には強国・高句麗も滅亡した。
その際、北に逃げた朝鮮族高句麗の一族と、元々北方にいたツングース系靺鞨(まっかつ)族によって今の中国吉林省、黒竜江省あたり、少し昔でいうと満州あたりに698年に建国を宣言したのが渤海であった。
ただ唐はその王を国王(国)とは認めず、唐の郡、つまり渤海郡王としていたから、意識としては高句麗国王の流れをくむ渤海王としては、唐に渤海国、渤海国王と認めさせるのが悲願であり、あわよくば高句麗の故地奪還が夢だった。
一方、歴史的に百済と友好的であった日本には百済遺民もいて、百済再興の夢があった。
そういう下で、日本からの遣渤海使、渤海から日本への使節団(朝貢)も頻繁に行き来があり、朝貢貿易という性格も含んで、その数は実は遣唐使よりも多かった。
さて奢れるものは久しからずではないが、唐において安禄山の乱(755~763)が起こり、淳仁天皇の太政大臣藤原仲麻呂は、好機到来と渤海と手を組み新羅を挟み撃ちで滅ぼし、朝鮮半島北の方は渤海、南は百済、あわよくば旧加耶を日本にと企んだが、渤海は唐に713年にすでに渤海国、渤海国王と認められて意欲は低下しており、国内では、淳仁天皇と仲麻呂は孝謙太政天皇と道鏡によるクーデター(仲麻呂の乱と言われるが実は反対)で失脚し、これらはすべて幻に終わった。
先日の勉強会ではもっと詳細な両国の外交史を学んだが、私などはこのように「日本は昔から外交音痴なところがある」などとつまらぬ感想を強くした。
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