2024年12月28日土曜日

餅つきの餅は食べない

    年末恒例のほのぼのとした定番ニュースの一つに「・・の保育園でお餅つきが行われました」というのがあるが、先日のそれでは「園児たちは別に用意していたお餅を楽しそうに食べていました」とアナウンスされていた。
 ウッウッウッ!と首をかしげたが、近頃ではこれ(ついたお餅は食べない)が常識?かもしれない。
 実際にお餅をついて、手分けをして丸めたお餅を食べるなど、「何かあったらどうする!」との「神の声」の前には、「何千年も前から日本人はこうしてお餅をついて食べてきたのだ」などという経験主義者の声など吹っ飛んでしまっている。もちろん私は吹っ飛ばされている声に属している。
 「何かあったらどうする」「責任者は誰だ」の風潮はほんとうに正しいのだろうか。
 「神の声」の前には委縮と責任回避しか残らない。「それならここは一丁片肌脱ぐか」という日本人は絶滅危惧種になってゆく。

 先日、本を読んでいたら、餅箱のことを生舟(なまふね)と書いてあるのがあった。私には初めての言葉だった。調べてみると主にそば打ちなどに使う道具という。構造はほとんど変わらない。
 そういえば以前に駅弁売り風の道具をつくったとき、それは番重(ばんじゅう)と呼ばれていた。
 奈良の文化で育った妻はそれを「こじゅうた」と呼んでいたが、これは麹蓋のことで、「こうじふた」の外に「もろぶた」などとも呼ばれたり、各地ではそれぞれ訛った言い方もあるようだ。今回は「餅おり」という地方もあるというのが判った。
 お雑煮もそうだが、こういう行事用の道具の名称も地域性が強いのも面白い。
 そんなもので「こじゅうた」と検索したところ、2013年1月19日のこのブログの「こじゅうた 餅きり鉋(かんな)」が出てきたので懐かしく読み返した。
 こんな話、「何かあったらどうする」派の方々には面白くもなんともないだろうなあ。

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