選挙戦最終盤の街頭演説中に元首相が銃撃されたため、私もこれはテロではないかと一瞬考えたが、霊感商法や反共活動で超有名な旧統一教会によって家庭が崩壊した人物による復讐心と報じられている。
日本の統一教会・勝共連合は元首相の祖父岸信介らが大いに援助して誕生し、保守派の選挙運動を大きく担ってきた政治部隊で、その組織の宣伝に元首相は大いに寄与してきたから、一部報道にある「逆恨み」というのも的外れで、右派政党・政治家の集票部隊内の矛盾というのが正しいのかもしれない。
そこには政教分離という民主主義の原則もなく、信仰の脅しで権力に奉仕し批判者を抑え込むという役割を果たしている。
ということもあり、ちょっとした機会でもあるので、改めて科学的社会主義と宗教の関係について再確認しておきたい。
古い話で恐縮だが、カール・マルクスは1844年、25歳(なんと25歳!)の時の論文「ヘーゲル法哲学批判・序説」のなかで、「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」と書いた。
この文章に先立って、ドイツの詩人ハイネも「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」と書いている。故にこの論文のアヘンは、鎮痛剤、精神安定剤と読むのが正しい。
当時のヨーロッパのキリスト教は、国王権力と支えあい、専制支配のもとで苦悩する民衆に忍従を説いていたことも事実である。
ところが現代日本の反共主義者は「宗教はアヘン」という1844年当時のマルクスの言葉尻をわい曲して、科学的社会主義を攻撃したりしているが、上述のとおりマルクスが宗教を侮蔑(ぶべつ)していないことは、「宗教によって不幸に抗議している」と述べていることからも明らかだ。
つまり科学的社会主義は、反宗教の立場ではなく、宗教が実際に果たした役割を分析し、宗教が担った民衆への奉仕の意義を重視して、世界観の違いをこえた宗教者との共同をはかってきた。ナチスに対するフランスのレジスタンスの標語は「神を信じる者も信じない者も」であった。
統一教会に高校生の時に勧誘されたことがあります。勧誘にマニアルがあるようです。堺東駅の近くの助産師さんの家の2階に連れて行かれて勧誘されたのです。私の場合、最初の段階で押し問答をしたのです。信じると言えというのです。何を信じろと言っていたのかは忘れましたが、この段階で向こうはあきらめたようです。内容が納得できるのであれば、信じるかもしれないので内容を説明しろというと信じると言わない者には説明できないというのです。最初の段階で無垢な素直な人間かどうかの値踏みをするようです。同級生の女の子は素晴らしいと陶酔状態になっていたことを思い出します。その子がどうなったかは知らないのですが、ひどい目にあっていないことを願うばかりです。(弁英)
返信削除私も高校生の折、ターミナルで被爆者援護のカンパと原水禁の署名活動をしていた頃、その横で、原理研究会というような名前でよく辻説法をしていました。非常に論理的なように見せて単純な例え話のようなことの積み重ねに思えました。
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