2020年12月6日日曜日

複雑系の人間論

   2020年1124日に『時代と人間そして芸術』というタイトルで山田耕筰と古関裕而の話題を借りて、芸術や学問も権力者の強力な露払いになる、つまり庶民に対する凶器にもなるが、社会と人間(ここでは著名な学者や芸術家など、最終的にはその時代の人々全般)を語るとき、単純にレッテルを張ってはならないと私は書いた。

味気ない文言でいえば戦争責任や転向の問題であるのだが、あまりブログ読者からの反応はなかったので、人間の生き方という複雑な問題は単純に答えを出して語りたくないと思う私には、少しだけ残念だった。 

 筒井清忠編『昭和史講義』(ちくま新書)の『まえがき』は、テーマとしては上述の問題意識と重なるので少しその骨子を私なりに紹介してみたい。

 ■ 昭和前期の多くの文化人・知識人を捉えたものは広い意味で左翼的なものだった。当時の雑誌などの購買者は、高等教育の普及により増大した知識人・学生層だったから、当然にそうなった。

 その傾向が、満州事変の頃から権力による弾圧とソ連におけるスターリンの圧政の下で衰退し、ほとんどの文化人・知識人が転向し、戦争に協力した。その理由は、弾圧ということもあるが、多くの国民が戦争に従事し犠牲を払っているのにそれに反対するのは難しく孤立感が増して抵抗しにくいという同調圧力もあった。

 そして敗戦となり「平和と民主主義」の時代となると、ほとんどの文化人・知識人は再び「民主主義者」に転向した。

 それぞれの時代の主調的イデオロギーに抗した例外もあるが、ほとんどの人は「時代に合わせて」生きてきたのであった。

 こうして、どうしても「古傷に触る」ことになる昭和文化史、昭和文化人・知識人史はほとんど書かれずに来たのであった。

 さて、エリート官僚の家に生まれた永井荷風は庶民に格別愛着同情がなかったのでこの時代、戦争に行く庶民のために戦争を積極的に鼓舞し肯定する文章をほとんど書かなかったが、流浪する貧しい行商人の子として育ち苦労した林芙美子は、二等兵として戦争に行かざるを得ない庶民たちに同情してそれを励まし慰める文章を多く書いた。だからと言って永井よりも林の方を指弾できるのだろうか。■

 「古傷」と「書かれないできた」でいうと、若い頃、戦前の軍国主義や侵略戦争のことを(当時の)大人の皆さんと語った折、ややもすると「俺は実際に戦争に行ってきたんだ」「父親は戦死したんだ」という感情の入った話で、それ上話が進まない体験があった。

 ただ「時間」は冷酷なほど公平で、縷々語られてきた三つの時代を生きた当事者がほとんど去った現代、戦争責任などを、「忖度」「出世主義」「理解力の弱さ」「同調圧力」等々の軽い言葉で腑分けして終わるのでなく、近頃の言葉でいえばリスペクトしながら昭和文化史を大いに語るのがよいような気がするのだが・・・。

 一般に言う「世論」というものも恐ろしい側面を持っている。「次の時代」が、再び三度「世論に則した」変な時代にならないように、社会を損得で語るのでない、理性が尊敬される社会にしたいものだが、そのためには、語る人々の人間味も問われないだろうか。

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