どんな世界でもそれに近い不文律はあるだろうが、私はそこそこの大人同士では割り勘を原則とし、若い人には割り勘でなくても減免した額をしるし程度でも貰うようにしていた。
その心は、後輩たちには「飲食にタダはない」という意識を習慣づけてもらいたかったためである。
それに、酒好きの上司がよく部下を連れて行っていたのだが、ある時ふっと「誰それはよく飲ましてやっているのにどうも・・」というように愚痴ったことがあった。部下はどちらかというと「断るのも悪い」と思って無理して付き合っていたのを上司は「飲ましてやった」となっていた。ああ、そんなものである。
桜を見る会ではないが、タダ同然で飲食を振舞い、それを享受するのは不純である。割り勘できっちり会費を支払うのが精神衛生上もよろしい。
その昔、百舌鳥と鳩と鴫が料理屋で御馳走を食べた。お勘定は15文だったが、百舌鳥は鳩に8文、鴫に7文出させて逃げてしまった。お勘定の頃になるといなくなっていたり、わざともたもたしてごまかす。そういうのを「百舌勘定」というと広辞苑にも載っている。
飲食でなくても、何らかの会場で「後片付け」になるとスーッといなくなるのも「百舌勘定」のような気がする。
言い伝えや昔話では百舌鳥は悪役が多い。私の育った堺には百舌鳥という地名があり、その地に大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)もあって親しみもあるのだが、大阪府の「府県鳥」の百舌鳥が「百舌勘定」のことわざと重なるのは辛い。
「都構想」だとか「広域一元化」だとか言って、結局大阪市だけに金を出させる大阪維新府政とことわざが重なってしまう。
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