2019年1月11日金曜日

ノスタルジー

 1月4日に宮川徏著「よみがえる百舌鳥古墳群」のことを書いたが、今回は古墳とは少し離れた昔の堺のことである。
 この本の「百舌鳥古墳群の立地と方位性」という章の中に、「私(著者)の少年時代・・堺市内の小学校では、夏休みに入る前の一週間ほどは毎日、子どもたちは学校で整列し、海の歌を歌いながら最寄りの海の家に歩いていき、水泳訓練を受けた」とあった。
 著者は1932年(昭和7年)生まれだから、戦前のことである。

 さらに私の持っている上林貞治郎著「臨海工業地帯の分析」という本の「堺泉北臨海工業地帯の昔と今」という章にも、「昔、『海は天与の大宝庫・・』という水泳の歌をうたいながら、堺の小学生たちは、各学校から列を組んで海へ歩いて行ったのであった。私の通っていた熊野(ゆや)小学校からは・・遠浅の大浜海水浴場に出る」とあった。
 著者は1908年(明治41年)生まれだから歴史は古い。

 そしてずっと下って、2004年(平成16年)発行の「堺泉州(15号)」の「堺の歌あれこれ」に題名と歌い出し部分のみが那賀ひろし氏によって紹介されていた。

   答えを先に言うとこの歌は「堺小学水泳歌」といい、大正2年に制定されたものである。
 そして、臨海工業地帯の造成工事のために1958年(昭和33年)に大浜海水浴場は閉鎖されたから、この頃に行事もそして当然この歌も「絶滅」したと思われる。
 そして、この最後の立会人の一人が私である。もしかしたら検死官?

 そのことは2004年(平成16年)発行の「堺人」という雑誌に私が投稿し、掲載されている。
 今般、宮川先生の著作を読んで懐かしい思い出がよみがえってきたので再びここに記した次第である。

 小学校から海パン姿で大太鼓に合わせて大声をあげて町の中を歩いている姿を想像してほしい。
 遠い記憶では1~3番ぐらいしか歌っていないように思うが、それにしても「狂瀾怒涛」などという難解な歌詞を小学生が歌っていたものである。
 4,5番当たりは富国強兵の匂いがする。
 今でもこの歌が歌える私などは、戦前の環境の下でこういう教育を受けていたら、軍国少年の先頭に立っていたかもしれない。

   海恋しと歌われし浜の蛮声恋し

 別掲写真の歌詞は私が記憶と図書館等との電話のやりとりで書き上げたものであるから、細部に誤りがあるかもしれない。気付かれた点等はコメントやメールで指摘願いたい。

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