2011年4月27日水曜日

神話について思うこと

 原発の安全神話と言われているものがもっている問題の本質は、東電や学者や官僚の知恵が及ばずに安全を信じきっていたとか、想定外の危機に見まわれたとかというものではなく、これまでの各局面で、「そうではないかも知れない」という意見を一切排除してきたことにあると思う。そしてその問題は、今現在の事故の対応策でも克服されていないと思う。
古墳上も立入禁止ではない

 
 ・・・というような書き出しは yamashirodayori らしくないので、天皇陵神話に移る。

 日本書紀によれば、継体天皇崩御は西暦531年(6世紀前半)で、延喜式(967年施行)は「三島藍野陵」は「摂津国島上郡(平たく言えば高槻)」に在りと言っている(書紀や延喜式の記述には矛盾や不正確さが大いにあるが)。

円筒埴輪と形象埴輪は
性格が違うものだった?
 にも拘らず明治政府は、茨木(701年の大宝律令で言えば島下郡)の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定した。
 
 案の定、1986年に陪塚から出土した埴輪は5世紀前半から中頃のものと発表され、この古墳が継体天皇陵ではありえないこととなったが、現代に至るも政府・宮内庁は「明治の指定は正しい。決定的な証拠がない限り指定変更はしない。」としている。

 このため、地元の茨木市HPは「宮内庁によると、継体天皇の御陵であるとされている。その没年は、『日本書紀』によると西暦531年頃。天皇の没年が6世紀、古墳の築造時期が5世紀であることなどから、この太田茶臼山古墳が、本当の継体天皇御陵であるか否かの論議が繰り返されている。」と苦しみながら書いている。

歴史館にある埴輪
左は力士(腕輪は大陸の残像?)
真ん中は鷹匠
 一方、高槻市の今城塚古墳は、陵墓参考地にも指定されなかったため、10年間にわたる発掘調査が行われ、200点以上の形象埴輪が並んだ祭祀場が発見されるなどから、これが真の継体天皇陵であることが今や定説となっている。
 よって、高槻市のインターネット歴史館も「真の継体天皇陵と言われている」と堂々と書いている。

 結局、言いたいことは、経産省や宮内庁には「異なった意見を論じ合う」ことを拒絶する神話信奉者が現に存することで、そういう「神話」はこの二つの組織だけでなく、大多数の企業をはじめ社会の広範囲に広がっており、そういう現実を直視すると、「この国が民主主義の国であるというような神話」の真実も見えてくるのではないかと思うことである。
祭祀場は葬祭後の
ジオラマ展示?
これはすごい兵馬俑?

 なお、このたび、真の継体天皇陵といわれる今城塚古墳と歴史館が公開(開館)されることとなったので、社会学習の子供たちが「天皇陵」の上で大いに遊んでいる。
 考古学ファンならずとも一度足を運ばれることをお勧めする。
 追伸・・継体天皇の謎解きの本を読み始めるときりがない。

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